テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
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DATE/ 2016.03.29

第1回 マキ・キュー

 用賀の一軒家に引っ越して間もない4月、わが家の猫のひたいほどの庭に、ときどき猫が来るようになりました。黒白の猫で、鈴がついた赤い首輪をしていたので、どこかで飼われている猫のようでしたが、ひょっとして首輪をつけられたまま捨てられたのかもしれません。

 美子ちゃん(妻)はタヌキと呼んでいましたが、ぼくはデンスケと名前をつけました。なぜデンスケかというと、若い人は知らないと思いますが、口の周りが黒いところが大宮デン助(浅草の喜劇人・大宮敏充が扮する口の周りを黒く塗ったキャラクター)みたいだったからです。

 庭石の上に煮干しを置いて部屋の中から見ていると、用心深くキョロキョロしながら近寄ってきて、食べ終わるとすぐにどこかに行ってしまいます。毎日来る日もあれば、4、5日来ない日もあり、しばらく姿が見えないと、美子ちゃんが少し寂しそうに「どうしたんだろうね」と言うようになりました。

 休みの日、庭を見ながら『デンスケ来ないかなあ』と思っていると、ぼくの気持ちを察したかのように、ひょっこり現れるときがありました。そして、ぼくのほうをじっと見ているので、ぼくもデンスケの顔をじっと見ていると、なんだか無性に眠くなってきます。ひょっとしたら、猫には催眠術があるのかもしれません。

 デンスケが来たとき、美子ちゃんがツナ缶をあげたら、その日から毎日来るようになりました。煮干しよりツナ缶のほうが好物のようです。ツナ缶を食べたあと、まるでぼくらにサービスするかのように、庭石の上でゴロゴロ転げ回ったりするときもありました。もしデンスケが捨て猫だったら、うちの子になるのかなあと思っていたのですが、デンスケは飼い猫であることがある日判明したのでした。

 7月のある日、デンスケの首輪がなくなっていたと美子ちゃんが言いました。ほかの猫とケンカして取れたのかもしれないねと話していたのですが、次に来たときまた同じ首輪をつけていたのです。デンスケが自分で首輪を外したりつけたりするわけがないので、誰かにつけてもらっているということです。それがわかったとき、少しガッカリしました。

 そのころは、デンスケはすっかりぼくらに慣れていて、触っても逃げなくなっていました。美子ちゃんがデンスケの頭を撫でながら首輪を触っていたら、首輪の裏に文字が書いてあることを発見しました。そこには〝マキ・キュー〟と書かれていました。それはおそらくこの子の名前です。ところが、「マキ、マキ」と呼んでみてもまったく反応がありません。次に「キューちゃん、キューちゃん」と呼んでみても、これもまったく反応がありません。「デンスケ」と呼ぶとこっちを見るのです。

だいぶ慣れてきたころのデンスケ。顔が笑っているように見えます。

 そんな話をぼくがブログに書いていたら、それを読んでくれているフリー編集者の松田義人くんから、その猫は牧さんのところのキューちゃんで、牧さんは末井さんのところの近くで造園業をやっているというメールが来ました。松田くんはうちの近くの出身で、お姉さんが牧さんと友達だそうです。

 しばらくして、牧さんからメールがありました。松田くんからアドレスを聞いたのかもしれません。そのメールには次のように書かれていました。

〈はじめまして。牧と申します。
 うちのキューがお世話になっています。先週は5日も帰ってこないので、事故にでも合ったのかと心配していましたが、3日前何食わぬ顔で帰ってきました。お腹も空かしていないし汚れてもいないので、これは絶対別宅があると確信しました。
 これからもおじゃますると思いますが、デンスケとして可愛がってやってください(メスですが…)。一度主人とご挨拶に伺いたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。〉

 えっ、メスだったのかぁ。それにしても、思わぬ展開になってきました。

第1回 マキ・キュー

第2回 猫の駆け引き

第3回 ネズミのような猫

第4回 黒ホッカおじさん

第5回 騒々しい庭

第6回 猫に話しかける

第7回 チーコ物語

第8回 猫の乗っ取り

第9回 ねず美ちゃんの母性

第10回 猫の癒し