●人生に悩みはつきもの
「これはいい、うまくいっている」というときは晴天で、「ちょっと、おかしいぞ」と言って、煩悶したり、疑問が起こってきたりするのは、梅雨になって雨が降っているようなものです。しかし、そういうことの繰り返しでしょうね。私でも、人は「松下さん、あんた、えらい成功しましたな」と言うけれども、私自身は毎日煩悶したり、「ここはいかんな」と考えたり、一喜一憂しているわけです。その一喜一憂の連続が私の本当の姿です。傍から見たら「えらいうまくいっておるな。新聞見たかて、もう非常にもうけておるな。品物もよく売れとるなあ」ということになるけれども、その実情は傍が言うようなものではなしに、随所に問題がある。それが人生というものでしょうね。それを問題がないようにするのは、自分で「これが世の中だ」というふうに悟りを開かないといけない。
私はよく「一番心配するのが社長の仕事だ」と言うのです。社長というものはどこの会社でも一番心配している。晩に心配で胸がつかえて、ご飯が食べられない。食べてもおいしくないというような状態が続いたりする場合がある。だから「かなわんな」と思う。けれども、その「かなわんな」と思うことが社長の役職なのです。社長が心配もなしにやっているというのだったら、それは本当の社長ではない。そんな社長では会社はうまくいかない。
仮に世間から「いい会社だ」と言われているような会社があって、そこに新しい社長が来たとする。その時に「やっぱりいい会社だな。これは具合いいな。いい会社へ入った」と思うような社長だったらもう駄目です。新しく来た社長が立派な人だったら、「『いい会社』と世間では言ってるが、入ってみたら問題だらけだ。これは直さなきゃいかん」ということで、そこから心配が出てくるわけです。その日から、それが3年続く、3年間心配に次ぐ心配です。そうやっているうちに、その会社がコロッと変わって、立派になるわけです。だから社長というのは、いわば心配するために存在するようなものです。「心配するのはかなわん」というのだったら、社長を辞めたらいい。
私自身はそういうことを社長の時も会長の時も考えてきました。今はもう社長も会長も辞めて、相談役です。けれども私がつくった会社だし、皆もそういうふうに思っている。だから寸刻も安心していることはできない。心配に次ぐ心配をしている。しかし、「これは自分の運命なんだ。創業者の宿命なんだ」と、こう思っています。
そこから心配なり悩みが生きがいになってくる。心配も何もなくて「えらいうまくいっているから安心や」と思っていたら、生きがいがなくなってしまうわけです。「かなわんなあ」と思うことはあるけれど、そのときに思い直して「この心配があるということは自分の生きがいやな。この生きがいがあるために松下電器は安全である。自分が心配している間は安全や。自分はこれから逃れることはできない。死んだら逃れられるけど、死ぬまでは、社長という名前は捨てても、会長の名前を捨てても、相談役という名前がある以上は心配から逃れることはできない」。そういうように悟ったというとおかしいけれど、そう考えざるを得ないわけです。そう考えるから、このひ弱い体でももっている。そうでなかったら、とうにくたびれて死んでいるでしょう。だから、悩みというものがある人は生きがいがあるわけです。悩む生きがいがある。何もかも都合よくいって、いいことづくめだったら、生きがいがなくなってしまいます。自分で生きがいをつくらなくてはいけない。
●鳴かぬならそれもなおよしホトトギス
ホトトギス――歴史上の偉大な武将たちの民衆の捉え方、政治の手法を端的に捉えるものとして、俳句の題材に登場する鳥です。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」と詠んだのは徳川家康。これに対し、「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」と民衆を為政者の意のままに操ろうと考えたのは豊臣秀吉です。さらに織田信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」と詠んだとされています。孤独だった戦国武将・信長の意に沿わぬ者は排除するという強い意思が表れています。
「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」
決してかたくなにならず、自然体の経営を実践した松下幸之助ならではの表現です。これらの四つの俳句はものの捉え方、考え方によって一つの事象の対処法がさまざまに転換し得ることを私たちに示唆しています。
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塾生 戦国武将の彼ら三人の全く異なった性格を言い表したエピソードとして、「鳴かずんば殺してしまえホトトギス」「鳴かずんば鳴かしてみせようホトトギス」「鳴かずんば鳴くまで待とうホトトギス」という、実際の話かどうかは別として、そういう逸話が残っていますけれども、もし塾長が「...