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徳川慶喜に擬せられる自民党長期支配38年の最後の首相

失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち(5)大平正芳・宮澤喜一

佐高信
評論家
情報・テキスト
かつて自民党は、ハト派とタカ派の拮抗が外交内政両面で平衡感覚を発揮した。専守防衛・国際協調主義で安倍政権の盾となり得たはずの宏池会に今その面影はない。その遠因を、佐高信氏は大平正芳と宮澤喜一の関係に見る。
時間:09:55
収録日:2014/02/07
追加日:2014/04/03
カテゴリー:
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≪全文≫

●秘書グループから政界入りした兄弟分の後継争い


“失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち”のテーマで、田中角栄まで話を進めてきました。
田中角栄の盟友といえば大平正芳。日中国交回復は、いわば田中・大平のコンビでやったようなものです。そして、大平正芳という人を考える場合に、対のように浮かんでくるのが、宮澤喜一という人物です。
どちらも同じように池田勇人の秘書官出身として、秘書官グループの中から政界に出てきます。ところが、兄弟分である大平・宮澤は、やがて権力の座をめぐってあまりしっくりいかなくなるのです。考え方は「ハト派」という点で共通していた二人ですが、一つの権力をめぐってどちらが早く後継者になるかということで、ある種の葛藤があったのです。
宏池会のトップには、大平の前に前尾繁三郎という人がいました。前尾と大平の間に争いがあったことが、前尾の直系である宮澤と大平の間にやや隔たりをもたらしたのでしょう。しかし、中国とも仲良くしなければならない」と、その考え方はまったく同じであったと私は思います。

●安岡正篤との関係で色分けできる保守系首相の系譜


一つおもしろいのは、保守系歴代首相の指南番と言われた、安岡正篤との関係です。この人は池田勇人が宏池会を結成したときの名付け親であり、「平成」の年号決定にも関わったと言われます。この安岡という人物についての態度が、大平と宮澤でははっきりと分かれるのです。
吉田茂にはじまり、池田勇人、そして大平という流れの人たちは、ある種の精神安定剤として安岡を大事にしました。ところが、宮澤喜一の場合は、自身が幼時から漢籍・漢学に馴染んできたこともあって、「安岡何するものぞ」という感を抱いていました。
やや話はそれますが、安岡正篤との距離感という意味では、官僚出身の保守の首相たちが安岡を大事にしました。しかし、そうでない石橋湛山、三木武夫、田中角栄という人たちは、自らが決定するという姿勢を持ち、安岡を恃まなかった。その系譜に、宮澤も属していたということです。
この安岡正篤は反共産主義、反共の思想で、台湾を大事にしたところから、日中国交回復にはいわば反対の立場をとった人でもあります。そこでも、宮澤・安岡の間には距離があったということだろうと思います。

●宏池会内の温度差が現在の安倍政権を生んだ


ここで話は少し先回りしますが、大平正芳の直系が、大平内閣で官房副長官も務めた加藤紘一になります。同じ頃、宮澤喜一が可愛がって大事にしていたのが、河野洋平です。
この二人がもう少しがっちり手を組んでいたら、 岸信介から現在の安倍晋三にいたる、いわゆるタカ派路線に対してのある種の砦になり得たのではないか。ところが実際には、大平・宮澤間のやや微妙だった関係が、そのまま河野洋平と加藤紘一の関係にも受け継がれてしまった。そのために、ハト派における「大同団結」というべきものが妨げられ、現在の安倍政権を生む原因にもなったと私は思っています。
宏池会はよく「公家集団」と言われますが、理念重視で権力闘争には弱いところがあります。その公家集団の中で、河野と加藤の間に微妙な温度差があるところを、小泉純一郎につけ込まれた。そして、「加藤の乱」というのも起こる。そのあたりが弱味となり、いわゆる福田派であり現在のタカ派、岸信介にはじまり福田を経て森喜朗、安倍晋三にいたる系譜によって、残念ながら制圧されていったと言えるのだろうと思います。

●「最後の首相」宮澤の敷いた路線が「村山談話」につながる


宮澤喜一という人は、そういう中で非常に奮闘した人です。第15代自民党総裁だったため、徳川家最後の15代将軍であった徳川慶喜に擬せられることもありますが、自民党長期支配38年の最後の首相として細川内閣に政権を明け渡しています。
彼は首相を辞めた後も淡々として、いろいろな意味で細川との懇談をじっくりと行えるように、引継ぎの場を設けたといいます。ここに、宮澤内閣から細川内閣にわたってブレーンを務めた田中秀征という人が介在してきます。
宮澤の路線は、「先の大戦では、特にアジアに対して日本が侵略をしてしまった」と認める立場から出発するハト派路線です。宮澤にはじまるその姿勢は、細川のラインに受け継がれ、さらには「村山談話」というところにも発展するわけです。

●兄弟間のドラマが悲劇に発展してハト派の衰退を招いた


このように、宮澤はハト派のいわば中心人物として存在したのですが、彼と大平の間にあったある種のすきま風が、残念ながら河野・加藤の間のすきま風となってしまった。そして、その後のタカ派のいわば暴風雨の中で、正しい理念を持つハト派が舞い上がることはできなくなっていった。そんな悲劇のキーパーソンとして、私は宮澤喜一という人を挙げたいと思い...
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