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『吾妻鏡』は鎌倉幕府の何を描くための歴史書だったか?

吾妻鏡とリーダーの要諦(2)その執筆の意図を探る

山内昌之
東京大学名誉教授
情報・テキスト
北条時政
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正史ではなく、編年体で書かれた将軍年代記であり、「源氏に厳しく北条に甘い」という特徴を持つ。そこに込められた書き手の意図と、必然とも言える『吾妻鏡』終止符の意味を解き明かす。シリーズ「日本の歴史書に学ぶ」第一弾。(2/4)
時間:11:08
収録日:2014/02/26
追加日:2014/04/17
≪全文≫

●将軍年代記であっても鎌倉幕府の正史ではない


 この書物『吾妻鏡』は、一体、誰がいつ書いたのかというのは、多くの謎に包まれております。二つの説があり、14世紀に書かれたという説を挙げる専門家たちがいます。もう一つは、二つの時代に分けて書かれたのではないかという説があります。すなわち、前半部については13世紀後半、後半部については14世紀初頭ではないかという二段階説をとっている学者もいます。

 しかしながら、この書物の特徴は、誤解してはなりませんが、実は鎌倉幕府の正史、つまり鎌倉幕府がはっきりと年代が分かる形で、誰かに命じてこの歴史を書かせたという、そういう意味での公式な歴史、オフィシャルヒストリーではないという点が大変重要なのです。

 この書物をよく見ていきますと、文章は編年体、すなわち、かつての日本の公式の歴史であった六国史、『日本書紀』や『続日本紀』から『文德実録』『三代実録』に至る公式の歴史と同じように、つまり天皇によって分けて歴史を書いたのと同じように、将軍職や将軍の交代を一つの基準にして歴史を書いているという年代記の形をとっています。


●源氏三代将軍には厳しい評価を下す


 さらにこの書物は、実は独特な和様調の漢文体で書かれていて、非常に不思議なリズムを持っている本なのですが、これを読んでいきますと、次のことが分かります。

 結論から申しますと、第一に源氏の三代の将軍に対してその評価が非常に厳しいということ。それに対して、二番目に、北条義時以降の北条得宗家の執権政治に対しては非常に甘く評価が高いという特徴が挙げられます。

 第一の特徴とは、これは例えば、二代将軍の源頼家は自分の家来、御家人が愛でている女性を奪いとったとか、蹴鞠に凝ったりして政治を顧みなかったというような調子で書かれています。また、源実朝は日本の文化史にも残る『金槐和歌集』を編纂し、私たちは彼を歌人としてよく知っているわけですが、その実朝が和歌に熱中しすぎ、そして後鳥羽上皇に対して忠誠を誓うあまり、鎌倉、東北の御家人たちのことを気にとめない公家肌の人物だった。すなわち、暗黙のうちに実朝は武人ではないというニュアンスで書かれたりしているのです。

 蹴鞠や和歌というのは、本質的に言えば、これは公家のものとして東国の武士たちは考えていました。たしなみや教養の基礎としては蹴鞠や和歌を否定することはなかったけれども、必要以上にのめり込んだ実朝に対しての評価は、非常に厳しいものがあります。

 さすがに、すなわち日本の武家政権の最初の棟梁であった初代の頼朝に対する露骨な批判はありません。しかし、よく読んでいきますと、頼朝に対するそこはかとない批判が散りばめられているのです。まず何よりも今、皆さんや私たちが描いている頼朝のイメージは、かなりの体が『吾妻鏡』が元々につくったのではないかと思われます。
 
 頼朝というと、あの英雄であり、兄を慕い、兄のために働いた義経を最後に殺害し、さらに同じ兄弟の範頼まで自分の手で殺害に追い込んでいくというように、非常に冷酷な人物として考えるような、どこかでそういった印象を子どもの時から持っています。その時に必ず出てくる人物として、義経のことを讒言(ざんげん)し、頼朝に義経の悪口を告げ、頼朝の義経に対する疑いを深めた人物として、梶原景時という人物がいます。この梶原景時に対する評価、梶原景時は悪い家臣であったというようなことを、実は『吾妻鏡』は摺りこんでいるのです。

 すなわち『吾妻鏡』は、実は結果として、源頼朝という武家の大棟梁、政権の創始者としての評価を間接的に押し下げることに貢献した書物だということなのです。


●得宗家に対する高い評価で北条執権政治の正当性をアピール


 それに対して対照的なのは、北条義時や泰時に代表される得宗家に対する高い評価です。第一に、この得宗家の全盛期のよき政治、グッドガバナンスについて強調しています。まず私たちが中学、高校の社会や日本史の授業で習ったように、貞永年間につくられたあの有名な御成敗式目(貞永式目)によって、法の制定による法治主義、現代風に言うと、法の支配を武家政権が初めて打ち立てたと評価しています。

 さらに評定衆や引付衆といった職制を定め、政策決定をグループ化することによって集団的な政策の運営、すなわち合議制というある種の日本型の民主主義の基盤をつくったのも泰時であるという形で語られます。これは暗黙のうちに、源氏三代が将軍の恣意的な政局運営をしたような将軍独裁制であったのに、それに代わって御家人たちの気持ちを酌み上げ、関東、東国の武士たちによる執権政治を得宗家が樹立したという見方に貫かれています。

 ですから、時宗に至っていくまで、この得宗の執権に関する批判...
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