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「吾妻鏡」が徳川家康に与えた影響とは?

吾妻鏡とリーダーの要諦(3)徳川家康への影響と効果

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
『吾妻鏡』は、後世にいろいろな効果を及ぼしていく。第一に数えられるのは徳川家康への影響だ。将軍頼朝を補佐した「御門葉」は、徳川では「御三家」に姿を変え、官職では「二人制」の知恵が引き継がれる。シリーズ「日本の歴史書に学ぶ」第一弾。(3/4)
時間:07:45
収録日:2014/02/26
追加日:2014/04/24
≪全文≫

●得宗家・金沢貞顕の統括で家臣団が書いた?


 では、誰が一体この本を書いたのか。もはやこれはほとんど明らかになっていると思います。明らかと言いましたが、実際にはまだはっきりと確定はされていません。明らかになったのは「推測」という部分のプロセスです。

 おそらく得宗家の一員で、「被官」と呼ばれる家臣の誰かが、多分一人ではなくて複数で書いたのだろうと言われています。そして、全体を統括した人物については、一つの考えとして金沢貞顕の名が挙がっています。すなわち、金沢流の北条貞顕だったという説が、今では有力視されています。

 金沢といえば、あの有名な「金沢文庫」です。貞顕は金沢実時以来の金沢文庫に関わりのある、北条の由緒ある諸流でした。読書、文書、貴重な録書などを通して、多くの教養や知恵を持っていた北条一門の一つであることから、このような推測に至る人もいるのです。

 こうした人たちにより書かれた『吾妻鏡』は、もちろん自分たちの北条家すなわち得宗社会を正当化するために書かれたものでしたが、図らずもこれが後世に、いろいろな点で多くの影響やその効果を及ぼすことになりました。


●頼朝の「御門葉」と家康の「御三家」


 第一に、徳川家康がこの本を愛読した結果について、ある専門家による説があります。『吾妻鏡』には、源頼朝が将軍の「藩屏」すなわち将軍を助けていく身内として、血のつながる清和源氏の流れから八人を「御門葉」として選んだ、とあります。そして、彼を政治的に補佐した「政所」などのリーダーの一人であった大江広元をはじめとする四人を「准門葉」と位置づけたと書かれています。

 ここで思い出すのは、徳川幕府、あるいは徳川家における「御三家」の存在です。家康は、頼朝からの三代で源家が滅び、血筋や血統が絶えたことを、歴史の教訓として大変大きく刻んだのだと思います。

 そこで、家康―秀忠とくる嫡流が仮に絶えるような事態があった場合のために、「御三家」を活用しようと考えました。この嫡流は実際にもその後、家光―家綱と続いた後、五代将軍の綱吉のところで横の枝葉に入ります。「枝葉」というのは、長子・嫡子でない流れを指します。綱吉も家光の血は継いでいるものの、長子ではありませんでした。さらに家宣―家継の後の八代将軍に、紀州家から吉宗が入ったことは、ほとんどの方がご存じだと思います。

 これは、まさに家康の非常に巧みな歴史に対する展望が当たったということです。家康がそうした知恵をどこから学んだかというと、おそらく『吾妻鏡』における頼朝の例を教訓としたからではないかという説があります。ですから、今お話ししたのは、それよりもやや強めの私自身の解釈ということになります。


●鎌倉幕府の組織を支えた「二人制」


 それから、鎌倉幕府と江戸幕府に共通しているのは、「二人制」という官職における複数の制度です。例えば、頼朝は平家を滅ぼしていくために、範頼と義経の二人の大将軍を司令官として派遣しますが、これも二人制をとっています。それから、奥州の藤原家を滅ぼした後は、後の陸奥、奥州の政局運営にあたって、「奥州総奉行」と「陸奥国留守職」という二つの職を設けて牽制させています。

 何よりも、本体である鎌倉幕府における「執権」という制度があります。これは実際の政治の責任者ですが、この執権役を果たす途中で北条泰時は「連署」という職を設けました。これは「共に署名を連ねる」という意味で、事実上は執権の二人制となり、他ならぬ執権が二人置かれていたということを意味します。

 さらに、後鳥羽上皇をはじめとする京の上皇たちが倒幕をもくろみ、北条家・鎌倉幕府打倒の兵を挙げた「承久の乱」が失敗した後、京都を監視する職として「六波羅探題」が置かれます。これも北方と南方の南北二つに置かれました。また、蒙古襲来を機に置かれる「鎮西奉行」も、東方と西方に二人の奉行が配置されます。さらに「鎮西探題」という職が、北条家の一員で得宗あるいは諸流である鎌倉から派遣されますが、これも二人同時に派遣されており、二人制というのが目立った特徴になります。


●「町奉行」や「公事・勝手方」に引き継がれた知恵


 こうなると、皆さまは既に想像されていると思いますが、江戸時代においても、例えば「江戸町奉行」が北町・南町の二人制度で置かれています。あるいは京都や大阪の町奉行の場合でも、南北ではなく東町・西町という形で二人制度をとっています。「長崎奉行」もまた、長崎と江戸にそれぞれ在勤して交代で勤務するという形の二人制度です。

 それから、浅野内匠頭の刃傷によって、赤穂城を修城する。その時の上使としての「使番」なども、やはり二人派遣されました。各地の「使番」も二人制度をとっていたのです。また、幕府の行政や財政な...
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