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「吾妻鏡」に書かれた「源頼朝の死」をめぐる謎

吾妻鏡(4)事実と虚構のはざまから

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
「いざ鎌倉」で知られる謡曲『鉢木』の佐野源左衛門と、水戸黄門の諸国漫遊はルーツを同じくした? 理想化された「武家の世界」伝承が、事実と虚構のはざまを一人歩きするにいたるプロセスを、山内昌之氏が追いかける。シリーズ「日本の歴史書に学ぶ」第一弾。(4/4)
時間:10:17
収録日:2014/02/26
追加日:2014/04/24
タグ:
≪全文≫

●最明寺入道・北条時頼の「廻国伝説」


 鎌倉と江戸をつなぐ例の三番目は、江戸時代につくられた事実とフィクションとの境界にまたがるある種の伝説についてです。これがやはり鎌倉時代にもあった。むしろ江戸時代のそれは、鎌倉時代のものに通じたのではないかというお話をします。

 例えば、最明寺入道・北条時頼のエピソードです。時宗の父、時頼は執権を辞め、入道、すなわち出家をします。その後、全国を回ったということで「廻国伝説」が残っています。その中に、謡曲『鉢木』の主人公となった佐野源左衛門尉常世との出会いなどがあります。
 

●『鉢木』のモチーフは法治主義と善政


 源左衛門は零落した御家人でした。ある日、旅の僧が泊まりに来るのですが、もてなす術もないほど非常に貧しい暮らしをしていました。それは自分の土地、すなわち「本貫地」が残念ながら人の手に渡ってしまったからであること、法的にはこちらが正しいことなどを、彼はその僧が最明寺時頼であるとは知らずに打ち明けて語り、時頼はそれを聞きます。その時に、「もてなすご馳走もできませんが」と言って、自分の大事にしていた鉢植えの木を割り、それをくべて暖をとらせ、旅人をもてなしました。それが『鉢木』のモチーフとなった伝説・伝承だったのです。

 この最明寺時頼と佐野源左衛門のエピソードは、後に時頼が鎌倉に戻り、まさに「いざ鎌倉」の言葉通りの非常事態を迎え、時頼が発した命令に応じて、関東の各地から武士が駆けつけますが、その中でも真っ先に駆けつけてきたのが、この下野の住人、佐野源左衛門だったのです。その後、源左衛門の本貫地についての調べがなされ、土地はめでたく彼の元へ戻ります。これはすなわち幕府の法治主義と善政のあり方を強調するお話です。強調された法治主義と善政が、後世に伝承として伝えられます。


●時頼の廻国は「正義の味方」水戸黄門へ


 この話が何を思い出させるかと言うと、まさに水戸光圀、すなわち水戸藩のご老公が水戸黄門として諸国を漫遊した話です。格さん助さんをお供に従えて漫遊した光圀は、行く先々で悪を懲らしめ、正義を勧めていく。これは、当時の人々の持っていた願望だったのでしょうね。世にはびこる不正を在地で訴えても、なかなか解決できない。そんなとき、上から正義の味方が現れ、正義を行使することを期待する。そんな面があったのだと思います。

 そうしたことが、時頼の廻国伝説を生み、また徳川光圀の廻国伝説を生むに至った背景です。そのようなことを思わせる世界が、『吾妻鏡』に描かれた「武家の世界」だということにもなります。


●事実と虚構のグレーゾーンに伝承が宿る


 『吾妻鏡』の中には、時頼が実際に廻国を行ったという具体的な記録はありません。しかし、専門家は非常に丹念に、彼が鎌倉に丸々いたという証拠のない年代を探し出しました。すなわち、二つの年に関しては、時頼が鎌倉にいたという証拠が出てこない。さらに、他の二つの年についても、ほぼ半年ほどの期間は鎌倉にいたという記事が出てこない。鎌倉にいた証拠がない時期は、鎌倉にいなかった可能性があるということになります。ですので、この時期に時頼が何をやったのか、非常に慎重に遡及していけば、廻国伝説も全くフィクションだったとばかりは言えないのです。このように『吾妻鏡』を読み解いていく見方もあるのです。

 私たちは、廻国伝説や時頼・光圀の事蹟を、すぐに事実として見ようとします。しかし、そこにはやはり「ある種のフィクションが入っているのでは」という疑いがあるべきで、そういう目で見なければいけません。しかしまた、完全なフィクションかというと、そうでもない。そのあたりが、歴史と虚構との間にあるグレーゾーンとして興味深いわけで、そこにまた、歴史家が果たしていくべき仕事もあるということになります。いずれにせよ、光圀の伝承ができたのも、『吾妻鏡』を背景にした時頼の回遊伝説を抜きには考えられません。


●「頼朝の死」。そのプロセスを隠したのは誰か?


 『吾妻鏡』はいろいろと謎の多い書物ですが、最後は「頼朝の死」をめぐる謎についてお話ししましょう。『吾妻鏡』には彼が死ぬ年に関する記述はありますが、その前の3年間にわたって記述が抜け、漏れているのです。これを専門家は「脱漏」と呼んでいます。

 これは、頼朝の死の謎、死に至る経過を解き明かす上で非常に重要です。そして、なぜその大事な箇所が抜けているのかということが、これまでの先達、先人たちの興味・関心を引いてきました。そして、これは「死」そのものではなくて、「死の様子(プロセス)」を隠したかったのではないかという説があるのです。
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