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王政復古の大号令による武力倒幕路線は必然的な流れ

五箇条の御誓文(3)「王政復古のクーデター」の必然

松浦光修
皇學館大学 文学部国史学科教授
情報・テキスト
小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍
皇學館大学国史学科教授・松浦光修氏による「五箇条の御誓文」連続講話。第3回では、横井小楠や坂本龍馬亡き後、彼らの思想がどのように政権中枢に流れ込んだかが論じられる。その過程は、「王政復古の大号令」から「戊辰戦争」、さらには列強との衝突事件などが巻き起こる激動の時代と、パラレルであり、その結果、「御誓文」には、当時の危機意識が反映されていった。(全8話中第3話)
時間:09:26
収録日:2015/11/29
追加日:2017/01/06
≪全文≫

●「御誓文」発布に向けた政治的動向


 倒幕の密勅が出たのと同じ日の10月14日、徳川慶喜は大政奉還を申し出て、これが勅許されます。薩長の倒幕派は、直前で肩すかしを食らわされたわけです。その翌月、慶応3(1867)年11月15日、龍馬は暗殺されます。33歳でした。小楠はその後も健在で、新政府の参与となりますが、慶応4(1968)年に病気がちとなり、翌明治2(1869)年1月、小楠も暗殺されています。小楠は61歳でした。

 しかし新政府の中枢には、この龍馬、あるいは小楠の思想を、受け継ぐ者がいました。それが由利公正(三岡八郎)と福岡孝弟です。いよいよここから、「御誓文」の発布に向けた具体的な動きが、始まっていきます。

 慶応3年10月25日、「大政奉還」の直後、土佐派は倒幕派の動きを封じようとします。福岡孝弟、彼は後藤象二郎とともに「大政奉還」に尽力した土佐藩の重役です。この人は長生きをして、85歳で亡くなっています。それからもう一人、神山郡廉という人がいます。この人も大政奉還に尽力した人です。この人も81歳まで生きています。それから、嵯峨実愛(正親町三条実愛)に、「公議政体・議事政体」、すなわち議論をして政治を進める政治体制をつくろうと、政治的に働きかけています。

 この人たちの働きかけがどういうものであったか。それが「五ヶ条の政綱」というものです。「五ヶ条の政綱」が出たのは、慶応3年10月25日で、「王政復古の大号令」のずっと前です。まだ、この時は龍馬も生きています。

 「国体変換 兵庫談判の事 諸侯会議 簾前盟約の事 皇国一体 朝廷条約、五国と結ばせらるるの事 制度改正局の事 議事院建立の事」

 福岡孝弟は後に、この五ヶ条の政綱を引用してこう言っています。

 「国体変換というは、幕府を倒して天下一新の帝国の体にするのだから、その次には、ぜひ諸侯を会して会議で事を決せねばならん。」

 幕末の頃の幕府でも、薩長でも土佐でも越前でも、その朝廷の下に「諸侯会議」を開くというのが、大体の筋だったわけですね。

 「それからつづいて、制度改正、簾前誓約という事を唱えた。」

 「簾前誓約」というのは、「御簾(みす)の前で誓いを立てる」ことです。御簾というのは、天皇陛下がいらっしゃる前の御簾です。つまり天皇陛下の前で誓いをすることです。

 「・・・簾前誓約という方が、のちに御誓文となった。・・・簾前誓約というのは、御上が出御になっている御簾の前で会議する。すなわち御前会議を開いて諸侯が誓約を立て、その上にて議を決する、というのである。」

 ところがその後、慶応3年12月9日に「王政復古の大号令」が出されて、徳川慶喜に「辞官納地」が求められます。官職を辞めて領地を返せ、ということですね。慶喜に、全ての官職と領地を朝廷に返還せよ、丸裸になれ、というわけです。実は慶喜は、“諸侯会議の議長”に収まり、結局は、これまでと大差ない待遇で、国政の主導権を握れると思っていたようですが、これ(辞官納地)は到底受け入れられない。これは明らかに、幕府に攻撃の火ぶたを切らせようという政治的戦略であり、これを「王政復古のクーデター」と呼ぶ歴史家がいるのも不思議ではありません。


●「武力倒幕」路線は「野蛮」だったのか


 一見、現代的な視点からすると、薩長派の「武力倒幕」路線は野蛮でひどい、土佐派の「平和的政権交代」路線の方が文化的でいい、と思えるかもしれませんが、私はそうは思いません。もしこの時、「武力倒幕」がなされていなければ、日本はどうなったのか。

 家近良樹さんという幕末史の専門家で、実証的な歴史学者がいます。実に妥当な見解だと思うのですが、この方がこう指摘しています。

 「王政復古のクーデターには、実施されなければならない必然性があった。200数十年に及んだ幕府専制政治の下、蔓延していた“なれ合い精神”は、新国家の創設にとって最大のマイナス要因となるものであった。これを粉砕するためには、クーデター方式という“ショック療法”が必要とされた。」

 つまり、もしもその“ショック療法”がなければ、結局のところ、旧習は一新されず、全国各地の各界・各層で、旧態依然たる社会構造が温存されていただろう、と思います。どこもかしこも、なあなあで、昔ながらの国に戻っていたと思います。そんなことでは、日本を急速に近代的な中央集権国家に変えていくことは、不可能でした。例えば、後の「廃藩置県」一つ取ってみても、あのような大事業は全て失敗に終わっていただろう、と思います。ですから私は、この時点での選択としては、「武力倒幕」しかなかっただろう、と思います。

 もし「武力倒幕」がなされず、政権...
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