10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
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木戸孝允は五箇条の御誓文を新生日本の国是に仕立て直した

五箇条の御誓文(4)原案作成の功労者たち

松浦光修
皇學館大学 文学部国史学科教授
情報・テキスト
法令全書明治元年第百五十六
皇學館大学国史学科教授・松浦光修氏による「五箇条の御誓文」連続講話。第4回では、いよいよ「五箇条の御誓文」がさまざまな人間の修正を経て、形をなしていく過程が語られる。特に重要だったのが、木戸孝允による「発掘」と「仕立直し」だ。木戸は当時の国学者たちや公家の意見を入れ、「御誓文」と神道を結びつけた。そこにはどんな意味があったか。(全8話中第4話)
時間:16:02
収録日:2015/11/29
追加日:2017/01/10
≪全文≫

●由利公正と福岡孝弟が「御誓文」の原案を作成した


 ここまでの流れを簡単に振り返ります。龍馬の「薩土盟約」が慶応3(1867)年6月。それから、慶応3年10月に「大政奉還」。そして10月25日に「五ヶ条の政綱」。12月9日に「王政復古の大号令」。それから翌(1868)正月3日に「鳥羽伏見の戦い」、「神戸事件」、「堺事件」。最後に「江戸城無血開城」となります。

 この激動の最中、奇しくも「江戸無血開城」の交渉が成立したのと同じ日に、京都で公布されたのが「五箇条の御誓文」です。よく知られている通り、この「御誓文」の原案は 由利公正と福岡孝弟によるものです。

 まず、由利です。彼は三岡八郎とも言いますが、どういう人だったか。一言で言えば、横井小楠の弟子であり、坂本龍馬の同志です。小楠は熊本藩の出身ですが、熊本藩では非常に冷たい扱いを受けたため、福井藩に何度も呼ばれていました。由利公正は、その福井藩での、いわば一番弟子と言うべき人物です。小楠は、この公正を大変見込んでいましたので、そこには当然、勝海舟や小楠、龍馬らの思想の流れが入っていたと思います。

 由利公正の原案を見ます。

「議事の体、大意
 一 庶民、志をとげ、人心をして倦まらざしむるを欲す
 一 士民、心を一にして、盛んに経綸を行ふを要す
 一 知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし
 一 貢士、期限を以て賢才に譲るべし
 一 万機公論に決し、私に論ずるなかれ」

 これ(万機公論)が最後にきているのですね。

「諸侯会盟の御趣意
 右等の筋に仰せ出でられるべきか、大赦の事
 一 列候会盟の式
 一 列藩巡見使の式」

 文中に「諸侯会盟の御趣意」とあるように、これは諸侯会議の、いわば「会議心得」のような文書なのですね。(由利の原案は)「会議心得」程度のものに過ぎなかったことが分かります。会議のときに配る、レジュメのようなものです。

 これを、土佐の福岡孝弟が修正します。この頃、京都で大名が集まって盟約を結び、天皇の下で盟約を結んで政治を運営していこう、という計画がありました。これは実現せず幻に終わりますが、おそらく福岡孝弟のこの修正は、その儀式のために書かれたのでしょう。その修正によって、原案はより「御誓文」に近くなります。

「会盟
 一 列侯会議を興し、万機公論に決すべし
 一 官武一途、庶民に至るまで、各その志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す
 一 上下、心を一にして、盛んに経綸を行ふべし
 一 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
 右等の御趣意、仰せ出ださるべきか、かつ、右会盟相立ち候処にて、大赦の令、仰せ出でらるべきか
 一 列候会盟の式
 一 列藩巡検の式」

 先の由利公正の案と比べると、「会盟」という表題が付けられているように、会議心得程度ではなく、いわば「誓約書」のような形に近づいています。つまりこれは、文章こそ「御誓文」に近いですが、その性格はまだ「御誓文」とはかなり違うもの、ということになります。なぜなら、これでは、大名同士が互いに約束する、天皇の前で約束する、というだけの話だからです。後の「御誓文」と基本的に違う、大切なのは、「天皇が神に誓う」というところなのですね。


●木戸孝允が、「お蔵入り」した「御誓文」を甦らせた


 この由利公正や福岡孝弟の原案は、いつ頃できたのか。正確なところは分かっていませんが、慶応3年の12月末か翌年...
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