10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
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反中若手タカ派「青嵐会」をリードした石原慎太郎

「日中」をめぐる保守の内部対立(2)台湾派の論理と尖閣「棚上げ」問題

若宮啓文
元朝日新聞主筆
情報・テキスト
1972年の日中国交正常化後も、日本国内では反対派と賛成派の攻防が続いた。台湾を支持するタカ派の論理や、対立の状況下で日中友好条約に至った経緯、そしていまだ尾を引く日中友好派、反対派の火種とは何か。(全3話中2話目)
時間:07:11
収録日:2013/11/08
追加日:2014/05/01
ジャンル:
≪全文≫

●日中国交正常化をめぐる反対派の面々


前回、1972年に田中角栄首相が北京に行って、日中の国交を開いたときに、自民党内から猛烈な反対があったというお話しをしました。
その反対の急先鋒になった人たちは、特にそれまで台湾の蒋介石政権との関係を密にしていた人たちです。当時で言いますと、もう古い方で亡くなった方ばかりですけれども、賀屋興宣さんであるとか椎名悦三郎さん、船田中さん、灘尾弘吉さんといった、党内の長老の方々、保守の重鎮でもあった人たちでした。
また、当時の若手としては、これも亡くなった人が多いのですが、藤尾正行さんや渡辺喜美さんのお父さんである渡辺美智雄さん、あるいは中川昭一さんのお父さんの 中川一郎さん。そして石原慎太郎さん。その後都知事となり、今は国会議員になって尖閣諸島で大きな石を投げたと申しましょうか、石原さんも当時からこの日中国交正常化に反対する若手のグループの核としていたわけです。
一方、賛成派の中には、これも党内の長老たちがもちろん何人もいたのですが、当時の若手でその後新自由クラブを結成し、衆議院議長も務めた、今は議員をお辞めになっていますが、河野洋平さんとその仲間といった方々が賛成派の急先鋒でいたということです。


●反対派の論理と「青嵐会」の旗揚げ


「台湾を切り捨てるのは反対だ」という方々の論理は、それなりに分からないではないのです。「もともと日本が戦争した相手は、蒋介石の国民党ではないか」という論理です。
そして、その蒋介石は実は戦争が終わったときに、「この恨みに報いるのに、恨みで報いてはいけない」「むしろ徳でもって報いよう」ということで、賠償を一切放棄したといった経緯があります。あるいは、蒋介石が天皇制の維持に協力したとか、日本が分割占領をされないようにソ連をけん制する役割を担ってくれたなど、つまり、自由陣営の一員として、非常に日本の味方をしてくれたではないかという意識が、台湾の切り捨てに反対した人たちにはあります。それに対して、共産党の中国は自由陣営の反対側にいるわけですから、そういう勢力と手を握って台湾を切り捨てるのは、いかにも仁義にもとるというのが反対の理由でした。
そして、先ほど申し上げた若手の人々は、翌1973年に「青嵐会」という若手タカ派の威勢のいい人たちのグループを旗揚げします。そのときに幹事長になったのが、石原慎太郎さんでした。「青嵐会」という名前も石原さんが名付けたという説がありますし、指を切って血判を押して仲間の誓いをする、その血判状を作る提案をしたのも石原さんでした。


●タカ派の支持を得ていた福田首相が、時流を汲み日中友好条約を締結


当時から福田赳夫さんを支持した人たちは、田中総理の日中関係に対してだけではなく、田中金権政治に反対するというようなエネルギーも持っていたのです。そういう中で反中国と、反田中という動きが渾然一体となって、その後にも長い流れを作ってきたということが言えると思います。
ただ、福田さん自体は、実は1978年、つまり国交正常化の6年後ですが、日中平和友好条約を締結した張本人になります。福田赳夫さんというのは、そういうタカ派の人たちの支持をかなり得ていた人です。派閥としては福田派で、この派閥は 安倍晋三さんのおじいさんの岸信介さんが作った派閥を継承したという経緯もあって、右派、タカ派が多かったのですが、福田さんという人はかなりバランス感覚のある方で、日中国交正常化をした以上、やはり時代の流れからして条約を作ら...
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