●ローマ人の行動基準となった「父祖の遺風」
ローマが強大な国家になっていくという中で、ローマの国政としては共和政期といわれる紀元前500年ほどの間の話をしています。その中で、ローマ人の行動規範、つまり彼らがどういうところに行動の基準を置いていたのかということを考えていくとき、ローマ人は” mos majorum”(モス マイヨールム)と呼びましたけれども、いわゆる「父祖の遺風」が彼らにとっては非常に大事であったのです。
それはどういうことかというと、父祖ですから自分の父親、あるいは祖先に関わることになります。よく現代では、2世や3世が出てくると、「もう2世だから駄目だ」とか「3世だから駄目だ」という話があります。政治家はもちろんのこと、会社の経営においても、「2世まではいいけれど3世になると、ろくなのはいない」などという話が日常茶飯事で聞かれます。
しかしそんなことを言ったら、ローマの元老院には、何世がいるか分からないほど連綿と続いている議員の人たちがいたわけです。彼らは2世、3世だから駄目だったということはあまり聞かれません。ローマ人は常に、父祖の遺風というものを大事にしました。それは、かつての人たちの行動や考え方を大事にしたというだけではなく、それに負けないようにしたのです。つまり、父祖の遺風の要になることは、自分たちの祖先に恥ずかしくないようにする、それに勝るものを成さなければいけないという意識が、ローマ人にはどうも強かったように思います。
●「父祖に恥じないように」という意識を育てる
そういう意識は、例えばギリシャ人にはなかったのかというと、決してそうではないと思います。しかし、ローマ人は、ことさらそういう意識をいわば制度なり風習の中で培っていく、育んでいく、社会のしきたりといったものが前から続いていたところがあるのです。
例えば、葬儀のときなどに、単に故人だけではなく、その祖父、曽祖父、あるいは家族の中で何代も前の優れた人たちの話を、繰り返し繰り返し聞かせます。小さいときからそういう中で育ってきますから、自分の中にそうした父祖の立派な行いというものが自然と身に付いていくのです。そして、それに恥じない、あるいはそれに勝る行いをしようという意識が、ローマ人には人一倍強かったのではないかと思われます。
●ローマの伝統を重んじた国粋主義者カトー
父祖の遺風というと、単に勇ましい話だけだと思われがちですが、決してそうではありません。ハンニバル(カルタゴの将軍)と戦かった第二回ポエニ戦争の時に活躍したスキピオ・アフリカヌスという大人物がいます。スキピオは救国の英雄といわれた人で、どちらかというとローマ的な伝統よりもむしろ先進文明であるギリシャの文明を取り入れるという、進取の気性に富んだところがあったのです。
このスキピオとちょうど同時代の人で、ほぼ同じ頃に生まれたカトー(マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス)という人物がいました。カトーは逆に国粋主義者の権化のような人で、「とにかくローマの伝統を守ろう。われわれはギリシャかぶれにならないように、国粋主義の下、ローマの伝統を守っていく」というところに非常に気を使います。
その頃のギリシャ文明というと、ローマ人からすれば先進文明です。現代におけるアメリカとヨーロッパの関係にたとえて考えれば分かると思います。アメリカは軍事力、経済力では強いけれども、文化の面ではどちらかというと、フランス、ドイツ、イギリスといった国の方が洗練されたところがあるように、ローマとギリシャも同じような関係だったのです。
文化の先進国という意味では、ギリシャの方がより優れたものを持っていたので、ギリシャのものを取り入れようという動きが出てくるのは当然なのですが、カトーという人物は、それをローマ的なものが失われていくということで非常に警戒していました。一例を挙げると、有名なヒポクラテスが紀元前5世紀に登場してきたことからも分かるように、ギリシャには進んだ医療技術がありました。そうすると、当然ながら医師はほとんどがギリシャ人なのです。ところが、カトーは、自分の息子に「ギリシャ人の医者にかかるな」と諭します。つまり、ギリシャ人にかぶれてしまうことを警戒していたのです。
●「育メン」はローマの伝統
それほど生粋の保守主義者であるカトーも、子育てに関しては、非常に気を使っていました。今、「育メン」といわれる人たちがいますが、ローマの伝統的な人から見れば、そちらの方が正統なのです。自分は仕事をして、教育を全部自分の家庭、つまり奥さんや母親に任せるなどというのはけしからんことで、最も基本的なこととして、特に息子に対しては父親が教育しなければいけないという考え方がありました。場合によっては...