●ローマ人が整備した古代のインフラ
ローマ人たちの1,200年の歴史の中で、特にわれわれが今、考えるに値するいろいろなことを、その人の生き方なり人生から学べるか。これをテーマに、3ページにわたるレジュメで、そういう人たちのことを取り上げてみました。
(画面に示したのは)紀元前4世紀の、非常に高貴な身分の人の彫像で、ブルートゥスではないかと言われています。実際に誰を描いたかは分かりませんが、とにかく紀元前4世紀のローマの貴族です。非常に気高くて芯の強いローマ貴族の様子が伺えますが、紀元前4世紀と言えば、日本が縄文から弥生にやっと移るような時期です。そんな時期に、このような彫像ができていました。
紀元前3世紀、つまり共和制国家になってから250年ぐらいの間に、ローマはイタリア全域、特に南部を併合していきます。有名なアッピア街道は紀元前の313年に造られています。これを造ったのは、アッピウス・クラウディウスという人物です。彼はアッピア街道、そしてアッピア水道もつくっており、いわゆるインフラの整備をやった人物です。
ローマ人がつくる街道の、第一の目的は軍道です。だからこの街道も、軍事的観点から、軍隊を派遣するためにつくるわけです。とにかく早く目的地に到達するためには、真っすぐ走らせればいい。真っすぐに道路を走らせるという形で、今のアッピア街道ができています。
ただこれは、自分の軍隊が行くときはいいですが、反対に敵の軍隊がやって来るときは、非常に危険なわけですね。実際にドイツのヴィルヘルム1世は、18世紀の段階でこういうローマの街道のような道を造るのを非常に嫌っています。要するに彼は、積極思考ではないわけで、マイナスの面だけをついつい考えてしまう。それに対してローマ人は、そのマイナス思考が非常に薄かったというか、とにかくプラス思考で考えていきます。
水道も同じです。水道も、例えば水道の途中で、中に毒や何かを混ぜられると非常に危険なのですが、そうしたリスクよりも、生活の環境をより良くすることを考えていった。そういう形でアッピア街道やアッピア水道ができ、インフラの整備が行われていった。それを最初に指導したのが、先ほど述べたアッピウス・クラウディウスという人です。
●アッピウスがローマ人に飛ばした檄
南イタリア、またシチリア島もそうですが、こちらの方面は、かつて「マグナグラキア」と呼ばれました。「大いなるギリシャ」という意味です。ギリシャ人が早い時期にここに入り込んでおり、この地域に植民都市をいっぱい建てていました。
先ほど言いましたように、ローマはイタリア半島をどんどん征服していく段階で、当然ある段階でギリシャ人と対立することになります。ギリシャ人を何とかしなければいけない。それでギリシャと戦っている時に、ギリシャ本土から援軍が来たのです。そのことでローマ軍が弱気になってしまった。それで和平交渉に入った時に、かのアッピウス・クラウディウスが出てきます。年を取って、もう目も見えなくなった彼が、ここの元老院議事堂で大演説をしたのです。
彼は「かつてアレクサンドロス大王は、トルコやギリシャ、そしてペルシャなどの東方に行ったから、ああやって世界を征服することができた。もし彼が西に向かってきたら、われわれが完全にたたきつぶしていただろう。あれくらいの気概を持っていたローマ人はどうしたのだ」と言いました。元老院でアッピウスは、下手にギリシャと和平交渉することに反対し、結局それが通って、ローマはギリシャと戦うことになります。
現代の基準からいけば、戦争をやるのはいいことではありませんが、この当時の基準からすれば、「先のことを考えると、そんな和平などしていられない」という感覚があった。アッピウス・クラウディウスは、年を取っても、そういう精神を失わなかったのです。
●ローマのライバル・カルタゴ
その後に、有名なポエニ戦争があります。ポエニとは、フェニキア人のことです。彼らをラテン語で呼んだ時、「フェニキア」という言葉が鈍って「ポエニ」になります。だから、ポエニ戦争とかポエニ人と言います。もともとフェニキア人とは、現在のシリア辺りにいた連中です。彼らがどんどん地中海に植民活動を行っていきます。現在のチュニスに近いところに、カルタゴという大きな国家をつくります。フェニキア人は最初、シリアの辺りにシドンやティルスなど小さな都市国家をつくっていましたが、やがて地中海、そしてだんだん大西洋に進出していきます。
カルタゴが大国になったのは、近代になぞらえれば、イギリスとアメリカの関係で考えてもらえばいいと思います。植民地をつくったら、だんだんそっちの方が大きくなり、大国になっていった。西地中海では、シリアからカルタゴがあるこ...