●『裕次郎』で取り上げた10本の映画
『裕次郎』という本の中では、10本の映画を取り上げました。まずラインナップを紹介しましょう。
昭和31(1956)年の映画が『狂った果実』、昭和32年が『俺は待ってるぜ』、32年から33年に向かう年末年始に封切られたのが『嵐を呼ぶ男』です。同じ昭和33年作に『赤い波止場』があります。この作品中の裕次郎が最高に格好良いという人もいます。翌昭和34年は『世界を賭ける恋』で、昭和37年『憎いあンちくしょう』、昭和38年『太陽への脱出』、昭和39年『赤いハンカチ』と続きます。そして、昭和41年が『帰らざる波止場』、最後が昭和42年の『夜霧よ今夜もありがとう』で、以上の10本です。
年配の方の中には、「観た映画ばかり」と言われる方もいらっしゃると思います。全部を取り上げるわけにはいきませんが、この中から2~3本、思い出に残ったものを取り上げて、時代との関わりの中でどういうことが描かれたのかを紹介します。
●ブラジル移民とボクシング人気を描いた『俺は待ってるぜ』
まずは『俺は待ってるぜ』です。裕次郎が演じる主人公は元ボクサーで、喧嘩の時に誤って相手を殺してしまいます。過失致死がついたかもしれませんが、そのために彼はボクサーを辞めて、レストラン経営を始めます。そこに、ある女性(後に石原夫人となる北原三枝)とのやりとりが、絡んできます。
やがて、彼にはブラジルに移民した兄がおり、1年たてば自分を呼んでくれるはずだからボクサーを廃業したのだということが分かります。ところが、肝心の兄との間は音信不通が続いています。1年後、兄に出した3通の手紙が「該当者なし」扱いで送り返されてきます。結局、兄は日本を出国さえしていないことがだんだんと分かってくるのです。
時代の背景にあるのは「移民」の事情です。今でこそブラジルよりも日本の方が先進国になってしまいましたが、戦時中も終戦直後も、まったくそうではありませんでした。戦前、満州への移民などは、日本が不景気の時に活発に行われ、戦後は行き先がブラジルやアメリカに変わります。特にブラジル移民については、政策的にかなり奨励されるようなところがありました。少年期をブラジル移民として育ったアントニオ猪木氏が、帰国後にプロレスラーになったのは有名な話です。
そういう背景の下、いざ移民するとなると船賃が必要ですが、「小銭」を貯めた人でなければ、すぐに資金繰りができるわけでもないので無理でした。兄はそのお金を狙われて、殺されていたのです。そこで「犯人を捕まえる」という日活映画得意のアクション場面につながるわけですが、その背景にはブラジル移民の事情もあれば、国民全てが極度に貧しい生活の中にいながら、移民の金に群がる暴力団のような連中がいたという時代の特殊性も浮かび上がってきます。
ボクシングにしても、日本では昭和27年ごろにやっと「日本ボクシングコミッション」というプロボクシングを統括する機関ができ、時代的に一般の人が広く見られるようになったばかりでした。
●『嵐を呼ぶ男』の荒唐無稽さは、母親世代の音楽への無理解
このように、裕次郎映画を時代背景の中に置いてみると、実にリアルタイムにその時代を味わうことができるのではないでしょうか。逆にそういうものから切り離して今の目で見てしまうと、背景は見えてきません。そのため、つい映画としての「作り」の良し悪しに目が行きがちです。その点では、今の方が、コンピュータグラフィックスなども駆使されており、良質なものが多い。しかし、その時代の背景の中に置くと、(裕次郎映画では)やはり非常にリアルな問題を取り上げているのではないかと思います。
第1話で、手をけがして叩けなくなったドラマーが歌い出す「荒唐無稽な話」だと紹介した『嵐を呼ぶ男』にも同じことがいえます。ドラム合戦で若者が盛り上がる背景には、母親の音楽への無理解があります。当時は「音楽などやるのは、ろくでもない人間だ」という考え方が一般的でした。
昭和30年代前半ですから、ジャズやロックがだんだん流行し始めた頃です。日本の時代の大きな流れからすると、音楽に飛びつくような人間はろくでもないと思われていて、真面目に会社に行って仕事をし、課長から部長へ出世するような道を歩いてもらいたいというのが親心です。母親からすれば、「音楽で食べていけるのか」「太鼓など叩いていて、食べていけるのか」と思うあまり、猛烈に反対します。しかし最後には、彼が素晴らしいドラマーになっていることに気付いて、それを認めるという話が背景に潜んでいたりするわけです。
●高速道路黎明期の日本を突っ走る『憎いあンちくしょう』
私が中学校に入った頃に観たのが『憎いあンちくしょう』という映画です。
主人公はテレビ番組の司...