●原敬と山縣有朋に見る「個人対個人」の力
齋藤 山縣有朋と原敬は、あれだけ立場が違っていて、喧嘩もしていたにもかかわらず、直接会って話をして、政策から人事に至るさまざまな相談をしていました。原敬の日記を見ていると、「大臣に人づてに指示が入ったが、差し金は山縣に違いないと思って、訪ねてきた」などの記述があって面白いです。
原は山縣を訪ねて、自説の意味するところや実施方法、効果などを徹底して説明する。山縣のほうでは「いや、別に自分が反対説を指示したわけではない」と言いながらも、双方が納得するように話をつけていく。
いわば国のために、すごい人のところへ一対一で勝負をしに行くわけです。山縣といえば日本陸軍80年の内の50年までを支配した男です。それを相手に、賊軍出身で何の後ろ盾もない男が勝負しに行く。また、それを山縣も受けて立つところが、いいですね。
―― 明治から1920年ぐらいまでの間は、個人対個人の力によるものが非常に大きいですね。
齋藤 大きい。
―― 陸奥宗光も一度は牢につながれるけれども、伊藤博文に抜擢される。原敬も司法学校で反乱を起こしたりして、似たようなところがありますね。
齋藤 原敬は大変でしたよ。
●人材を「みんなでちゃんと」育てようとする社会
―― しかし、有力者の引き立てとともに、当時は世間の緩やかさもありました。
齋藤 それはやはり、人を育てようという風土があったのだと思います。能力があってもお金のない家の子などがいると、応援して学校へ行かせてやる人が当時はいっぱいいました。
野口英世もそうで、火傷による障害を手術する費用を集めたり、医者になるために上京するまで支援してくれる小林先生のような人が出てきています。今は、そんな人が出るかは疑問です。当時のほうが貧しかったからかもしれませんが、お互いに助け合って、優秀な子には道をつけてやろうという風土が、江戸から明治にかけては強くありましたね。
―― 「みんなで育てよう」という精神ですね。
齋藤 しかも「ちゃんと」育てようとします。特に、伸びると見込んだ子どもは単に生きていけばいいというのではなく、一流の学校へ入れ、経費をかけて教育しようとしました。明治政府自体がそういう姿勢で、貧乏な人にも全員に教育を与えることで、日本の近代国家を支える人材を作ろうとしていました。その空気の中で、当時の政府が成り立っていたのだと思いますね。
―― シンガポールのリー・クアンユーを思い出しました。1965年に独立したときに、ハイエンドの教育以外には、全く食料も水もないこの島国で生きていかなければならないと言った。
齋藤 人材しかないですよね。
―― 実は彼らのほうが、明治維新成功から一等国になるまでの日本の戦前史をよく勉強しています。
●ヨーロッパを研究した幕末の若者たち
齋藤 明治の日本も、ヨーロッパなどの先進国をよく研究しました。旧幕時代からヨーロッパへ行ってきた渋沢栄一がいかに彼の地で多くを学び、それを日本で実践しようとしたかなどを見ても、驚くべき優秀さです。ただ、今の日本人が能力的にそれをできないとは思わない。問題はやはり「道徳的緊張」ですよ。司馬さんはそこを憂いて、それが崩れているから「日本に明日はない」とまで言い切っていました。司馬さんが諦めるようなものをわれわれがなんとかできるような代物ではないとも思うものの、でもやらねばなるまい、とは思います。
―― 伊藤博文、井上馨とともに渡英した「長州ファイブ」を見ていると、もう気合いで行ってしまっていて。伊藤と井上の二人は馬関戦争が起こるから戻ってきますが、残りのメンバーが東大工学部を作ったり、造幣局を作ったりします。
齋藤 なかなかやってくれますよね。
―― なかなかです。グラスゴーの造船所で働きながら大学まで行ったり、言葉もわからず、お金もないのに一体どうやっていたのかと思いますが、気迫があると、なんとかなるのでしょうね。
齋藤 当時の人間は無茶をするから、とてもまねできないところが多いですけど、なんとかなったのでしょうね。高杉晋作などは、留学するという名目で藩から多額の資金をもらいながら、全部長崎で使い果たしています。もうめちゃくちゃで、今そんなことをしたら逮捕・牢獄です。でも、藩にとっては彼を生かして人材に仕上げなければいけないということで許してしまう。甘いとも言えますけれどもね。
―― でもそれは、人が育つ風土になっていますね。
●過去の日本人に学び、先輩たちの業績に学ぶ
齋藤 明治の日本はそうでした。国として、良質な指導者層をどう育んでいくのかについて、システムはまだ少なかったけれど、時代の空気がそうだったし、個人的に志向する人が多かった。今はそれではやっていけない...