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関ヶ原の戦いで徳川家康に天下を取らせた武将…その遺言は

関ケ原の戦い~勝者と敗者を分けたもの(1)家康勝利の功労者とその遺言

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
『関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)』(関ケ原町歴史民族資料館所蔵)
日本近世史のエポックである「関ケ原の戦い」。制したのは徳川家康だが、その勝利はある武将の存在なくしてはあり得なかった。その武将とは一体誰なのか。彼は内密に書き残した遺言の中で、何を語っているのか。歴史学者の山内昌之氏が、関ケ原を動かした武将の遺言を取り上げ、そこに描かれる歴史のドラマ性を解説する。なお、『文藝春秋』2018年1月号(2017年12月8日発売)より「将軍の世紀」と題した山内氏の連載が開始。今後もその連載に関連するレクチャーを随時配信していく予定だ。(第1話)
時間:10:25
収録日:2017/12/04
追加日:2017/12/13
≪全文≫

●関ケ原の戦いは歴史のエポックである


 皆さん、こんにちは。歴史には大きなエポックというものがあります。エポックとは、その事件が起きることによって、大きな歴史の展開が果たされたという事件のことです。日本の近世史においては、関ケ原の戦い(1600年、慶長5年)がまさにそうです。中世の分裂に終止符を打ち、やがて来る徳川の平和、すなわち徳川の一国平和主義に道を開くことになった事件でした。

 関ケ原の戦いにおいて、徳川家康に天下を取らせた重要人物はたくさんいます。またそれに歯向かった人物もたくさんいます。そこには歴史のドラマ性と迫真性が含まれています。

 今回はまず、皆様が誰でもご存じの人物を1人ご紹介しましょう。ただし、今はその人物の名はひとまず伏せ、次のような彼の言葉をぜひ聞いてください。私が現代語に訳したものですが、その武将の回顧の言葉です。


●我らが大坂方と手を組んでいれば・・・


 「関ケ原の一戦の前、東から徳川方として美濃路をはせ上った朋輩の多くは、太閤秀吉の取り立てになる大名であった。我ら――この時代には「私」の意味です――が心変わりをして、大坂方、すなわち西軍と手を組んでいれば、福島正則、加藤嘉明(よしあきら)、浅野幸長、藤堂高虎らも、喜び勇んで共に別の道に進むことも案の内であった。

 この者たち――歴史の事実としては東軍に味方した者たち――も、西軍・大坂方に加わり、島津義弘と私が先陣となって攻撃に出たならば、他の東軍・徳川方は一戦に及ばず、敗北するのも明白だったかもしれない。大勢は大坂方となったに違いない。日和見を決め込んだ諸国の大名や小名の全ては、私が西軍についたという知らせを聞いて大坂方に参陣したに相違ない。

 だからこそ徳川家康公も我々の心根に疑いを抱き、人馬を連ねて百里以上にもなる大敵を相手に、徳川軍の先鋒として井伊直政や本多忠勝だけをつかわし、その後、外様の諸将に二心がないことを見届けてから、ようやく出馬なさったのだ。だとすれば、私が諸大名を誘って、島津義弘、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、そして宇喜多秀家を先陣に、東へ押し寄せたなら、東軍はこれらの者に快勝できたであろうか。家康公は弓矢に秀でた長者、達人であるにせよ、御自ら先鋒になられる以外に、事態を打開する仕様はなかったであろう。

 万一、先に述べた武将たちがなお東軍にとどまったとしても、私が西軍に加わったなら、毛利家や小早川秀秋らは安心し、先んじて大坂方の味方になっていたはずだ。島津、私、宇喜多などが諸兵力を動かし、先陣で打ち出せば、東軍の岐阜城攻めはもちろん、誰一人として美濃路で手向かいができるはずもなかった。ほうほうの体で関東へ引き上げるのが関の山というものだ。これらをわけなく追い払えば、諸国の大名は日を追って決起したに違いない。さすれば、家康公も箱根より西にご出陣、ご出馬することは思いもよらなかっただろう。」


●徳川には貸しがあるということを踏まえて処置せよ


 この武将はこうした文章を残しています。結論を先延ばしするようで恐縮ですが、この人物が誰かということは、今とりあえず置くとしましょう。ここで触れられていることは、大半が歴史の事実に反したことです。島津や宇喜多秀家は西軍につきましたが、事実としてこの人物や福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、藤堂高虎らは東軍につきました。この武将は、このように事実をひっくり返した、倒錯したフィクションを語っているわけです。

 これが、家康に天下を取らせたと自称する大名の、極秘の遺言の大意です。私が一部補足しながら現代語に訳してみたものですが、ここで「我ら」とか「それがし」と原文にある書き手は一体誰でしょうか。それはほかならぬ、NHK大河ドラマの準主役となった黒田如水の子ども、黒田長政です。東軍において家康が最も頼みとし、家康の天下取りに最も功労のあった黒田長政のことです。戦後は筑前(今の福岡県)で50数万石の大封を受け、大大名になっていく人物です。

 長政の文章は、自分が西軍に加担した場合を仮定しながら、関ケ原合戦の前後にあり得た政治情勢の緊迫感を描いています。長政が言いたいことは、こうです。勝利の功労として家康から筑前一国を与えられた。これはまことに大分のご加恩、ご加増であったが、家康に尽くした自分の大きな功績、大功と比べれば相当のご恩とは言えない、と。いわば不平不満を漏らしているわけです。

 長政は、大河ドラマの主人公になった父・如水、すなわち黒田官兵衛が合戦の折、九州を平定したのに、領地の拝領を家康に辞退していたことにも触れています。しかし、時も過ぎれば、黒田の子孫も過ちや国家の大事を犯すかもしれません。つまり、福岡や博多を含む筑前を治める中で、過ちを犯すこともあるでしょう。そうなったときには、...
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