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黒田長政が毛利家・小早川秀秋を味方につけた外交術

関ケ原の戦い(2)黒田長政の知略

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
黒田長政騎馬像(福岡市博物館蔵)
関ケ原の戦いは天下分け目の争いであるにもかかわらず、わずか1日で決着が付いた不思議な戦争である。この戦争で家康に勝利をもたらした最大の功労者は、武将・黒田長政だった。長政はどのようにして豊臣恩顧の武将を説得し、毛利家や小早川秀秋を味方につけることができたのか。歴史学者の山内昌之氏が解説する。(第2話)
時間:12:09
収録日:2017/12/04
追加日:2017/12/14
≪全文≫

●家康の戦略に一番貢献した武将は黒田長政である


 皆さん、こんにちは。関ケ原合戦についての2回目になります。前回申し上げたように、関ケ原合戦があれほど簡単に決着がつくとは誰も思っていませんでした。テレビドラマにもなった、歴史上有名な武将である真田昌幸や黒田如水らは、関ケ原合戦を期に、東西対決の持久戦争が長引くと予想していました。その反面、ここが徳川家康の政治家としての端倪(たんげい)すべからざる点ですが、家康は多角的な政治戦略と機動的な戦術を結び付ける柔軟な戦略によって、決戦を結果としてわずか1日で片付けてしまったのです。

 そして、この家康の戦略に一番貢献した武将が黒田長政でした。彼の遺書をそのままご紹介しましょう。

 「当日の奮戦などは珍しからざることに候ふ」。つまり、ちっとも珍しいことではないというのです。自分の最大の貢献は、「第一、知謀をもって毛利家ならびに金吾中納言、味方となり候ふ。これにつき、その他味方つかまつるもの多くなり候ふ」。つまり、自分の貢献は何よりも知謀、すなわち知恵と謀りごとをもって、毛利家一同や小早川秀秋を味方にできたことだというのです。その結果、他にもたくさんの味方が増えたと自慢しています。


●東西両軍の主力はいずれも豊臣秀吉恩顧の武将だった


 関ケ原合戦が不思議な戦争になったのには、他にも理由があります。それは、東西両軍の主力がいずれも太閤・豊臣秀吉恩顧の武将だったということです。これは戦局と政局をまことに不透明にする原因でした。

 そもそも家康は、秀吉の忘れ形見である秀頼の命令によって、黄金2万両と米2万石を下賜され、いわば豊臣の命令に従って東に下っていました。しかし、家康の留守をついた石田三成の画策によって、すぐに秀頼の敵だと認定されてしまったのです。その間、広島に本拠を置く毛利輝元が大坂城の西の丸を占拠し、西軍の総大将格になりました。

 秀頼を擁する状況において、本来は豊臣陣営であったはずの武将たちは、上杉景勝を攻めるために会津に向かっていたところでした。その道中、現在の栃木県の小山の陣において、家康が秀頼の敵だと認定されたという事実を知った武将たちは、深刻なジレンマに陥ります。なぜなら、一方で自分たちは総大将として家康を担いでおり、他方、家康を誅戮(ちゅうりく)、すなわち逆臣として扱う旨は、自分たちが恩顧を受けている秀吉、その息子の秀頼の名で発せられていたからです。総大将・家康をどうすべきか、彼らは悩みました。


●黒田親子の諜略は、関ケ原の戦いを不思議な戦争にした最大の原因


 このジレンマの解決に貢献した、豊臣家武将の代表こそが黒田長政でした。秀頼を頂いて石田三成が決起した際、去就を迷っていた最大の有力者の一人は福島正則です。黒田長政は彼の説得に当たりました。「秀頼公はまだ幼く、これが石田の謀りごとであることは間違いがない。正を捨て邪に従うのは武士の本意ではない」。このようにして、黒田長政は厄介で個性的な人物である福島正則を説得したといわれています。

 こうしたことは、いわゆる一次資料ではない資料にたくさん書かれていますが、長政の計略がさえていたということは、誰もが否定できない事実でしょう。実際、黒田長政のいわば戦時外交によって、毛利秀元と吉川広家の両名は、戦争において東軍・西軍のいずれにも加わりませんでした。毛利秀元は輝元の代理人として関ケ原に出兵し、南宮山に本陣を構えた武将です。吉川広家は南宮山の麓近くにあって、先鋒先陣を承るはずでした。さらに、盾裏の裏切りを行った金吾中納言こと小早川秀秋のような武将も現れました。小早川秀秋は、陣立てができてから見方を裏切るという、最も卑怯な形で東軍・家康に味方したのです。

 こうした武将に対して、いずれも黒田長政は自分の家臣を送り込んで、当時の言葉でいう返り忠、すなわち裏切りの画策を行ったのです。よく考えてみてください。毛利秀元、吉川広家、小早川秀秋はいずれも、本来は家康に匹敵する西国最大の武将、毛利輝元につながる武将たちでした。吉川元春と小早川隆景という先代筋は、吉川と小早川の川を取って「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれ、毛利の本家、宗家を支えてきました。これはあの有名なジンギスカンの教えにも並ぶ、毛利元就の3本の矢のようなものです。一本の矢では簡単に折れてしまうが、兄弟3人がいれば丈夫になると言って、隆元・元春・隆景に諭したという逸話です。

 しかし、元就の嫡孫、すなわち隆元の子である輝元ら毛利の一族は、天下をめぐる政治決戦の戦場において、家康に対抗できるおのれの立場や力を理解せず、全く不可解な行動に出ます。すでに小早川秀秋は秀吉の甥として小早川家の養子に入り、中国地方をおさえていた毛利家から離れ、独立系の大名にな...
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