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王者の学問はどうあるべきかを示した徳川家康

家康が築いたTOKYO(3)現代に通じる家康の教訓

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
徳川家康の残した言葉は、「堪忍」や「辛抱」ばかりではない。多くの武家が書き残した彼の言動は教養に富み、特に警句や機知に富む寸言ではナポレオンにも引けを取らないと、歴史学者・山内昌之氏は保証する。現代にも通じる、その教訓とはどんなものだろうか。(全3話中第3話)
時間:12:30
収録日:2018/04/03
追加日:2018/05/17
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≪全文≫

●「われ一人腹を切て、万民を助くべし」と言った家康の諦念


 前回は、理想を現実に変える志と粘り強さ、持続性を胸に置いて活動してきた徳川家康の姿に触れました。家康の忍耐力と決断力については、有名な大久保彦左衛門(忠教)が『三河物語』の中で、興味深い言葉を紹介していますが、その言葉に尽きるかもしれません。それは「われ一人腹を切て、万民を助くべし」というものです。

 豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いで家康に敗北した後、それでも軍事力や動員力といった実力においては自分の方が上回っていると承知していたため、なんとか家康を上洛させ、臣従させたいと願いました。これに家康の家臣たちは皆、反対します。「これは陰謀・奸計であるから、行けば殺される。よせ」というのです。そのため、秀吉はいろいろ努力をします。まず、布石として旭姫という妹を家康の正室に送りますが、それでも駄目なものだから、今度は大政所である母親を人質同然に、駿河へ送り込みます。秀吉の母親思いは知られていましたから、こうして家康を篭絡しようとしたわけです。

 結果として、家康は覚悟して上方へ上ります。その時、殺されたらどうすると危ぶむ臣下たちに対して、「自分一人が腹を切れば済むことではないか。それによって万民を救うことができ、天下国家が安泰になれば、それもいいではないか」ということを言ったのです。つまり、人々のためには自己犠牲もいとわないという意味でした。

 これは、よくできすぎている話ですから、ただちに美談=史実とは限らないという前提のもと、慎重な扱いを込めて私は言うわけですが、家康にある種の達観、悟りの境地があったことは間違いありません。これは、洋の東西を問わず、現在も過去も、最高指導者にはある意味で必要な資質です。


●「郷に入れば…」だけではない「片葉の芦」の教訓


 家康は、決して和歌や能には耽りませんでした。しかし、歌をつくったり読んだりすること自体への関心や教養は備えていました。『源氏物語』や『伊勢物語』のような王朝文学を好んで読むというわけではなく、『吾妻鏡』などさまざまな歴史書を統治の学として読み、政治家として必要な教養を身に付けることに関心があったのです。

 また、大坂の陣の際のエピソードも知られています。大坂に陣を敷いた時、近くの村に珍しい片葉の芦(葉が片方しかない芦)があると聞き、その芦を刈らせて献上させました。すると、外孫の一人(池田忠雄だったと思います)が、「ここの芦は荻だ」と、余計な注釈を入れたのです。家康は、「おまえは『難波の芦は伊勢の浜荻』だという言葉を知らないのか」と、さりげなくたしなめたということです。

 これは、「そこで『芦』と呼ばれているものが『芦』なのだ」ということですが、為政者としては、土地によって違うものの名前や表し方、それらの風俗習慣を一つ一つ押さえておかないと、さまざまな土地で人々を治めることはできない、ということです。それを世阿弥の『芦刈』という有名な能の文句を借りて、『難波の芦は伊勢の浜荻』と語ったわけで、こういう教養がさりげなく出てくるところが、家康の真骨頂でした。


●王者の学問はどうあるべきかを示した家康


 あえて世界史的に著名な軍人政治家と比較すれば、家康はカエサル(ユリアス・シーザー)のような、『ガリア戦記』を書くほどの文筆家ではありません。しかし、ナポレオンのように、核心をズバリと突く警句や機知に富んだ短い言葉を発する才能には十分に恵まれていました。こうした言葉は、『徳川実紀』のみならず、さまざまな江戸時代武家方の書き物、今日風にいうとエッセイ集や評論集に収められています。

 家康は、天皇の政務に関する規定である「禁中並公家(中)諸法度」をつくる根拠として、朝廷や公家に自家蔵の秘蔵本を書写させました。この事業が行われたことで、火事を免れて後世に伝えられた写本も多く、貴重な和歌や文学が現代にまで残ったということです。古典や記録類を複写して写本にさせた功績は、たいへん大きいものがあります。

 家康は、王者として学問に接しました。政治家や行政官は、学者のように学問にこだわる必要はないというのが私の考えです。それは学者の仕事であり、政治家や行政官にはもっと大事なことがある。ウマイヤ朝の初代カリフであったムアーウィヤは、「王者たるものが特定の学問に深入りするのは良くない」と明言しています。あくまでも統治者の本分に忠実に、学問に接することが大事だというのは、家康の考えていたところでもあります。


●家康の知足ぶりを伝える「すりこぎ」のエピソード


 私の考えでは、家康はリーダーとして、「足ることを知っている者は常に足る」という『老子道徳経』にも出てくる有名な老子の言葉を身に付けていたように思います。「足る...
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