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和泉式部の『百人一首』の歌は最も情熱的

百人一首の和歌(3)和泉式部

渡部泰明
東京大学大学院人文社会系研究科教授
情報・テキスト
東京大学大学院人文社会系研究科教授の渡部泰明氏が百人一首の和歌について解説するシリーズレクチャー。第3回では、日本史上最大級の女性歌人ともいえる和泉式部の歌を取り上げる。渡部氏は、百人一首に選ばれた情熱的な一首に従来の訳とは異なる解釈を加えているが、それはこの歌に和泉式部らしい特色が非常に強く表れているからだという。(全5話中第3話)
時間:14:45
収録日:2018/04/02
追加日:2018/06/23
ジャンル:
≪全文≫

●平安時代最大の女性歌人・和泉式部


 和泉式部の歌についてのお話をしたいと思います。和泉式部の『百人一首』の歌は次の一首になりますが、有名な歌です。

 あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

 これは、『百人一首』の歌の中でも一番情熱的な歌ではないかなと思います。あるいは「この歌が一番好きだ」などという人も何人か私は存じ上げていますけれども、非常にいい歌だと思います。

 和泉式部といえば平安時代、その中でも王朝文化最盛期を支えた女流文学者です。紫式部、清少納言たちと同世代で、宮中を中心に日本の貴族文化が最盛期を迎えた時代。そこで活躍した歌人であり平安時代最大の女流歌人、あるいは歴史上現れた女性歌人の中でも最大級であると言って構わないだろうと思います。その和泉式部の歌として、この歌が入っているのです。


●情熱的でさまざまな議論を呼ぶ一首

 
 また、例によって詞書がありませんので、ではどういう状況で詠まれたのかということは、この歌が採られた『後拾遺和歌集』という4番目の勅撰和歌集に当たってみなければなりません。そこにはこうあります。

 心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部
 あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」(後拾遺集・恋三・七六三)

 さてこの歌は大変有名で、好きな人も多く、また非常に情熱的な歌として知られているわけですが、実は解釈にかなり議論の余地があるのです。例えば、代表的な解釈を1つ挙げておきましょう。『新日本古典文学大系』(岩波書店から出ている古典の注釈叢書)の中の『後拾遺和歌集』の注釈ではこうなっています。

「私はこのまま死んでしまうでしょう。来世の思い出としてもう一度あなたにお会いしとうございます」

 かなりオーソドックスなもので、こういう感じで理解している人も多いし、こういう訳が多いのではないかと思います。

 もう1つ、今度は非常に特色ある訳です。小松登美さん(元跡見学園短期大学・同女子大学教授)他4人でなさった注釈で、中心的なのは小松登美さんという方なのですが、こうあります。

「今度はもうとても助からないと思いますの。あの世までの思い出にもう一目お目にかかるすべでもあればと思いますわ」

 この訳は『和泉式部集全釈』という本の中に入っていますが、何かいかにも女性らしい会話体がなかなかすてきですね。ただこれは、内容的にはほとんど『新日本古典文学大系』の訳と変わりません。


●屈折をはらんだ上の句


 問題はどこにあるかというと、上の句なのです。

 「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」(これは「おもいでに」ではなく「おもいいでに」と読むのが正しいようですが)の「あらざらむ」は直訳すれば「ないだろう」となるのですが、要するに「生きていないだろう」ということです。「この世のほか」はあの世のことで、「生きていないだろう、あの世の思い出に」ということです。江戸時代の注釈書で、「冥土の土産に」という訳がありますけれども、まさしくぴったりですね。

 でも実際よく見てください。この「あらざらむ」は「この世」にかかるのです。「私がいないだろうこの世」の「ほか」、なのですね。この世とは違う世界なのです。そこで「思い出となるように」となります。そういう状態になったときに思い出になるように、なのです。ですから、「あらざらむこの世」の「ほか」の「思い出に」という、非常に屈折をはらんでいるのです。


●和泉式部と相手と両方の「思ひ出」という解釈


 今までの訳は、これでいいのだろうかと私はずっと納得できなかったのです。そこで次の訳を提出してみました。これは多分、私流の風変わりな訳だろうと思っているのですが、もしかしたら誰かもう既にこのような訳をしているのかもしれません。

 「私がこの世からいなくなったら、あの世での思い出のよすがとなるよう、またこの世で私を思い出してもらえるよう、もう一度会いたい」

 これはどこが違うのか。まず「あらざらむこの世」ですが、これは自分のいないこの世ですね。自分がいないのです。この自分は亡きがらでしょうか、少なくとも自分は不在であるということになります。ですから当然相手はいるわけです。相手は私がいなくなってぼうぜんとしている、そういう状態です。そして、その「ほか」ですが、今度はあの世の方に視点が移って、私はあの世にいる、そのときの思い出なのです。さあ一体これは誰の思い出でしょうか。今までの訳は全て作者自身の思い出、つまりあの世へ行った彼女、和泉式部が抱くこの世での思い出だと思っていいだろうと思います。それは間違いないと思います。確かにそうでしょう。でもそれだけでいいのかということです。

 もう一つ、こ...
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