●幼少期から外国文化になじんでいた岡倉天心
東京女子大学名誉教授で、比較文学、比較文化を専攻している大久保喬樹です。今日は明治の思想家であり美術運動家の岡倉天心と特に彼の主要著書である『茶の本』についてお話ししたいと思います。
最初に岡倉天心という人がどういう人物だったのかということを、おおざっぱにご紹介したいと思います。天心は明治維新の直前に、当時に開港地であった横浜に生まれました。父親が貿易商をしていたということもあり、幼少の頃から大変に外国になじみがあったということです。天心は『茶の本』を英語で書きますが、日本ではほとんど最初のバイリンガルといえるくらい英語に堪能でした。単に語学が堪能というだけではなく、常に外国に目を向けている人でした。
天心の同年代としては、『武士道』を書いた新渡戸稲造、あるいは森鴎外など、明治の文化をつくった代表的な人物がずらりと並ぶわけですが、天心は明治維新を境に横浜から東京に移り、やがて明治10年に日本に初めてできた官立の大学・東京大学の第一期生として森鴎外などと一緒に入ることになります。
そしてその後、天心はアーネスト・フェノロサというアメリカからやってきたお雇い外国人と大変親しくなり、二人で二人三脚のような形で日本の近代美術行政を開拓するようになります。例えば、国宝制度、また最も重要なものとして現在の東京芸術大学の美術学部の前身である東京美術学校などを次々につくり上げていったのですが、天心はそうしたことを若くして行った美術運動家なのです。
●欧米化一辺倒の風潮に対し、日本の伝統文化の重要性を説く
同時に天心は非常に早くから海外に目を向けておりました。例えば、中国、あるいはインドに半年、一年と長く滞在をして、植民地化されていくアジアの現状というものを見て、西洋に対してアジア諸国が結束して向かっていかなければならない、といった考え方なども培った人です。
明治の社会は伝統文化を切り捨てて欧米文化を取り入れるのに夢中になっていたわけですが、天心は「それは非常に狭い考え方だ。やはり、これから近代文化をつくっていく上で、日本の伝統文化をしっかりと捉えなければいけない」という考えを持っており、東京美術学校を発足する時には日本美術の専門にしたのです。そのため、当時の社会の風向きとはずいぶんと逆らった形となり、それによりいろいろと逆風が吹いてきました。
明治30年代に入ると、東京美術学校の校長をしていた天心は、スキャンダルがあって自らつくった学校から追い出されてしまうのですが、横山大観などその後の日本の近代美術を継ぐ弟子たちを引き連れて、日本美術院という組織をつくりました。これも現在に至るまで、近代の日本美術発展の軸になった組織です。
●世界にむけて日本文化の発信をした『茶の本』
そのように天心は活躍しながらも、日本の社会が次第次第に西洋化、近代化一辺倒になりアジアを切り捨てていくという方向に進む中、だんだんと日本に居場所がなくなってしまいます。天心は後半生をアメリカのボストン美術館の仕事に捧げることになり、そこで世界に向かって日本の伝統文化がどういう意味を持つのかということを、英語で発信しました。それが今回取り上げたいと思っている『茶の本』です。
原題は『The Book of Tea』といいます。追々お話をしますが、茶の本というと普通は茶道の手引き書と間違えられることもあるのですが、この本は茶道、茶を通して日本あるいは東洋の世界観や自然観を、非常に幅広く説いた本で、大変大きな反響を呼びました。
実は『茶の本』と並んで、現在に至るまで世界に向けて日本文化を発信した本として、新渡戸稲造の『武士道』という本があります。これは新渡戸がアメリカ滞在中に欧米人に向かって日本文化を説いたものですが、『武士道』というタイトルでも分かるように、武士の倫理というものを中心に日本文化を紹介しました。これに天心は真っ向から対立するように、武よりも文、和の精神というものが日本、あるいは東洋の根本なのだということを説いたわけです。
『武士道』と『茶の本』は、いずれも日露戦争に日本が勝つ前後に相次いで出されたということもあり、現在に至るまで非常に大きなセンセーションを呼びました。
●五浦海岸に居を構えた天心の平和へのメッセージ
その後、先ほど申しあげたように天心は後半生をアメリカを主な仕事場とし、休暇の時に日本に戻ってきたりしていましたが、もはや東京で活躍するというようなことはありませんでした。
茨城県の五浦(いづら)という非常に人里離れた海岸に家を建てて、悠々自適の暮らしをしたわけですが、そこには天心の自然に対する感受性、考え方が非常によく表れていると思います。「陸地は国境というも...