●感情や欲求が抜けた知性はないのだから、AIは腑に落ちない
長谷川 私は1990年代に、JST(科学技術振興機構)の異分野交流プログラムで、ロボットの専門家と生物学の専門家による議論の場を提案し、1年ほど行ったことがあります。28年ほど前になるのでかなり前になるのですが、その時にロボットの専門家たちは、感情や報酬を考えた際、そもそも何を報酬と感じるかといったことを、一切抜きで議論していました。私は「感情や欲求が全く抜けた知性はないのではないか。それを考えない議論は全て駄目な議論ではないか」といったことを話しました。それ以来、随分いろいろと進んできたことは分かるのですが、私は生物学者なので、どうしても人工知能(AI)というものが腑に落ちないというか、嫌なのです。それで、いろいろと話をするのですが、やはりどこか腑に落ちませんでした。
今回、松尾さんから事前にいただいた資料を読みました。関連するテーマについての話の中で一番面白かったですね。それで、今日はお話しするのを楽しみに参りました。
●ディープラーニングは、生物の進化においての「眼の誕生」か
松尾 ありがとうございます。僕は長谷川先生の本などを読み、「知能とは何か」ということを考えているのですが、考えれば考えるほど、やはり知能ではない部分に目が向いてしまっています。素人ながらいろいろな所で感情の話をするのですが、こんな素人考えで話して良いのかと思っていたこともあり、一度よくお話を聞いてみたいなと思っていました。
僕はよく、ディープラーニングを「眼の誕生」に例えるのですが、これも諸説あるそうです。これについては以前、長谷川先生と話した際、「そういう説もあるよね」と、あまり否定されなかったように思います。それで、僕も少しそのような形で話しても良いのだな、という気持ちになったということもありました。
でも、やはり専門家から見てどう思われるのかということをきちんと確かめておかないといろいろな所で話せないということがありますので、今回はいろいろとぜひ議論したいと思います。
●生物は身体性と不可分にあるのではないか
長谷川 そうですか。ではどこから議論しましょう。松尾さんは人間の認知の仕組みが大きく分けて認知運動系と記号処理系に分かれるというお話をされています。これはその通りだと思います。その上で、体とは身体性がないと本当に駄目なのか、という松尾さんの話には、私は非常に興味があります。
松尾さんの本にはいろいろと書いてありますが、私は、生物の知能は別に誰かが設計してつくったわけではなく、生きて繁殖していく中で情報処理が必要になり、それに合わせて進化してきたもので、身体性と不可分にあると思っています。大昔の漫画に、脳みそだけがホルマリン漬けになり、そこに電極があって、それで指令するというような話があったかと思いますが、そのようなことは絶対にないと考えていました。
そこで、松尾さんは体の話をどのように考えていますか。
●知能が複雑な現象をひもとく力であるとすれば、身体は必要ない
松尾 僕もそう思っていたのですが、最近、若干考えが変わってきています。知能というものをどう捉えるかによると思うのですが、知能を生存のための装置だと考えると、そもそも生存とひもづいていなければならないので、最後はやはり行動にどう直していくかが一番重要です。そうすると、身体性とひもづいていない知能はあまり意味がないことになります。
ですが、知能を複雑な要因が絡み合った現象をひもとく力であると考えると、自分が観測しているある現象に対して、何が作用してこうしたことが起きているのか、あるエージェントにとって何がコントローラブルで何がコントローラブルではないのか、ということをひもとくことさえできれば、必ずしも身体性は必要ないということになります。だとすると、そうしたことは観察だけで可能なのではないかと思うに至りました。
長谷川 そうですか。ですが私は、観察も含めて、何かを考えることの大前提に、既に体のフィードバックが入っているのではないかと思います。
松尾 そうなのですが、そこも分からないところですね。
長谷川 分からないですよね。
松尾 そもそも「コントロールする」ということを言っている時点で、そこでは体を仮定しています。
●身体性がなく動かない植物には、知性もない
長谷川 なぜそう思うかというと、植物は中枢神経系がないからです。植物は動きませんよね。もし動けるなら、次のアクションを選択しなければなりません。また、動けるということは逃げたりどこかに行ったりできるということで、そうした情報の選別が必要なのです。しかし、生物の何十億年の歴史の中で植物に中枢神経系ができなかったのは、そ...