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「神風の一員になれ」と言われた少年時代

東京大空襲と私(1)昭和20年3月10日の体験

早乙女勝元
東京大空襲・戦災資料センター名誉館長/作家
情報・テキスト
平成30(2018)年は、東京大空襲から数えると73年に当たる。今年も3月10日には東京都の慰霊堂で営まれた法要に多くの人が参列し、犠牲者の冥福を祈った。都は3月10日を「平和の日」と定めている。この悲劇の記憶を風化させない活動に半生を捧げてきた東京大空襲・戦災資料センター館長で作家の早乙女勝元氏が、自らの体験を語り起こす。(全3話中第1話)
※撮影協力:東京大空襲・戦災資料センター
時間:12:21
収録日:2018/03/26
追加日:2018/08/01
≪全文≫

●「神風の一員になれ」と言われた少年時代


 早乙女勝元です。今日は、東京大空襲の私の体験からお話をさせていただこうと思います。東京大空襲は、昭和20(1945)年3月10日、米軍B-29による無差別爆撃でした。

 当時、私は12歳です。今でいう、中1(中学校1年生)の生徒とお考えくださっていいと思いますが、国民学校高等科1年生になっていました。当時の男の子は、ほぼ間違いなくみんな軍人志望でした。少年航空兵が憧れの的で、14歳から受験することができました。15歳になると「七つボタンは桜に錨」と歌われた予科練へ行けるということで、こぞってお国のために尽くそうという子どもたちばかりをつくる教育になっていたのです。

 例えば当時、私が買わされた鉢巻きがあります。その頃は学校の授業はなく、勤労動員先の鉄工所へ、これを締めて働きに行くことになっていました。今お目にかけると、「風神」と読む人がいるので困ります。それは逆で「神風」です。

 なぜかというと、日本は「神の国」だというのです。だから、歯向かってくる敵は「鬼畜米英」(アメリカとイギリス)と呼ばれました。まさかというような重大事が来たとしても、心配することはない。きっと神風が吹いてB-29の大群を吹き散らし、敵の連合艦隊もみんな藻くずとなって消えてくれる。おまえたちは1日も早く「神風の一員になれ」というのが、先生が繰り返し繰り返し言っていたことでした。

 ここで少し矛盾しているのは、神風が吹くのを待てばいいのかと思うと、そうではなく、「神風の一員になれ」、つまり「神風特攻隊になれ」ということです。


●サイパン・マリアナから空襲に来たB-29


 そういう教育状況の中、昭和20(1945)年になった途端に、いよいよ国土が戦場に変わる日が始まりました。島国である日本の場合、戦場は全部海のかなたにあったわけです。「内地」(伝わりにくい言葉になりましたが、外地に対する内地です)である国土は「銃後」と呼ばれました。「銃後の守り」といえば女性や子どもを指し、そこは絶対に安全な地帯ということになっていたのです。

 その頃、日本に向けて開発されたアメリカの超重爆撃機B-29の発進基地が、東京まで2300キロの地点に造られました。「サイパン・マリアナ基地」と呼ばれ、サイパン、テニアン、グアムの島から成っています。一時は日本軍の占領していた場所ですが、全滅してアメリカの支配に置かれました。

 ここから飛び立つB-29は、さすがに北海道や青森まではガソリンがもたなかったようで、そこを除き、当時「帝都」と呼ばれた東京を中心に、日本中の諸都市をターゲットにすることができました。こうして、連日連夜にわたる警戒警報、空襲警報のサイレンの鳴り止まぬ日々を迎えたわけです。

 空襲のない夜はないくらいの状況下で、大空襲の3月10日がやってきました。一晩で東京都民10万人が焼け死んだというほど空前の人命被害を出した日です。「未曾有の」といってもいいでしょう。それまでに激戦場はいろいろと数多くありましたが、まさか一晩で10万人が死ぬということはありませんでした。ですから、史上最初の大量殺りく都市は東京だったのです。

 その後では沖縄の南部戦線、あるいは広島や長崎がありますが、どうして東京大空襲でそんなに大それた人命の被害が出たかというと、北風のものすごく強い夜だったことが挙げられます。その北風にナパーム製の油脂焼夷弾の火の手があおられて、風が火を呼び、火が風を呼ぶという乱気流状態になったのです。目標は東京下町地区の超人口密集地帯で、ほとんどが今と違って木造家屋です。類焼や延焼にはいささかの抵抗力もなく、あれよあれよと言っているうちに下町全体を火がなめ尽くしました。アメリカ軍にとってはまさに神風ではなかったかと思います。


●空襲の朝に見た「何もない」光景


 こうして隅田川と荒川本水路に囲まれたデルタ地帯が丸焼けになったわけですが、私は、その火の激流をかき分けるようにして逃げて逃げて逃げました。「もう危ない」と思うと、水にすがるより仕方がありません。水がなければ火を消すことはできません。その水がいっぱいあるのは、やはり隅田川です。

 私は、いざとなれば隅田川に飛び込むけれども、それでも命拾いができるかどうかという際どい時を迎えて、明け方の5時半ころに隅田川沿岸に到着しました。そこには私が動員先で働いていた鉄工所があったため、多少の土地勘はあり、どこが隅田川沿岸かという見当は、子どもである私にも付いていました。そこで、朝を迎えたのです。

 その朝は、もはや昨日まで過ごしていた朝ではありません。後ろを振り返っても、右を見ても左を見ても、もう町はないのです。全てのっぺらぼうの焼け野原になっていました。向こう岸の浅草・橋場方面には何もありません。その片...
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