●通商条約締結に向けた幕府の動き
今回は、孝明天皇と大老・井伊直弼というテーマでお話しします。幕府がアメリカとの間で和親条約を締結し、その結果、アメリカの船が下田と函館に来るようになりました。それから後に長崎が加わります。また、ロシアとも同じような条約を結びます。しかし、アメリカにとって和親条約は、あくまで第1ラウンドにすぎません。第2ラウンドは通商条約、つまり貿易をすることがアメリカの本来の目的だったのです。
そういった中で、アメリカはタウンゼント・ハリスという人物を、公使として日本に派遣します。彼の使命は、日本に通商条約を結ばせることでした。ハリスは粘り強く幕府の担当者と交渉したのですが、それに対応したのが、佐倉藩の殿様であった堀田正睦でした。堀田正睦は、勇退した阿部正弘に代わって老中の首座についていたのですが、非常に開明的な人物でした。また、非常に深い海外の知識を持っていた人物で、彼の下についていた藩士の中には、順天堂大学の基礎をつくった佐藤泰然などがいました。それ故、通商条約を結ぶことは、これはやむを得ないという考え方を持っていたわけです。
そこで、堀田老中も阿部老中の方針を引き継いで、政治については本来、幕府が単独で決めるべきという考えもある中、大名に諮ったわけです。しかし、そこではいろいろな意見が出て、堀田老中は完全にまとめきることができませんでした。そこで、堀田老中は京都に上がって天皇の許可を求めようとしたのです。
●将軍継嗣問題における一橋派と幕閣主導派の対立
また、この通商条約の問題と並んで当時の日本国内で横たわっていた問題が、次の将軍候補を誰にするかという、将軍継嗣問題でした。当時、13代将軍である徳川家定は、非常に病弱でした。島津家出身の篤姫と結婚したのですが、なかなか子どもに恵まれませんでした。跡継ぎが決まらないまま将軍が死んでしまうと、幕府にとっては非常な緊急事態になります。
そこで、早いうちに次の将軍を決めようという議論が出てくるわけです。仮に従来の決め方を踏襲するならば、今の将軍に子どもがいない場合、一番血筋が近い人から選ぶことになります。そうすると、家定から見て一番近い血筋は、紀州藩主だった慶福という人物でした。しかしながら、今や日本は未曾有の国難に直面しています。そういった段階では、徳川一門の中で一番賢明な人物を次の将軍にした方がいいのではないか、という考えがでてきます。
このように、二つの議論が出てきます。まず、賢明な人物とされる一橋慶喜を次の将軍に推す、一橋派と呼ばれるグループがいます。これは、阿部老中以来の大名協調路線を堅持する立場を取ります。ただそこには、将軍として慶喜を擁立することによって、自分たちの発言権を確保しようとする有志大名たちの思惑がありました。他方で、幕閣主導路線で何が悪いのか、むしろ秩序の安定こそが今、必要なのだという立場の人たちは、従来のルールに則って、紀州の慶福を推します。
●孝明天皇による条約締結の拒絶と攘夷の意向
こういった状況を見て、ルール的には一橋派の方がやや不利なので、彼らは条約に関する勅許を得るために京都に上がった堀田老中を助ける形で、将軍継嗣に関する天皇の威光をいただこうとしました。しかしながら予想外のことに、天皇は条約締結を許しませんでした。つまり、条約勅許を拒絶するわけです。そうなると、鎖国を堅持する、要するに攘夷の考え方を示し、それが天皇の意志として広まっていくわけです。
そして、一橋派が狙った将軍継嗣については、明確な朝旨がもらえませんでした。そうなると、一橋派にとっては失敗ということになります。一方、通商条約を結ぶ必要がある、そうするとしっかりした将軍後継者が必要であり、それで慶喜を推すという流れでした。しかし、天皇が条約を認めなかったわけです。
●井伊大老による幕政の主導と一橋派による対抗
これを見た幕閣主導路線派は、堀田老中以下の失態であると捉えて、幕閣主導路線の中心的な人物であった彦根藩主・井伊直弼が、大老として幕政を主導していくことになりました。いずれにせよ、条約の勅許がもらえなかったということで、井伊大老としては、まず朝廷があまり熱心に関与しなかった将軍継嗣の問題を解決し、通商条約については時間をかけて解決するという考えを持っていました。しかしながらここで、さらなる予想外の事態が起きます。
当時は、中国でイギリス・フランスと清国が戦争をしていたわけです。アロー戦争とも第二次アヘン戦争ともいわれますが、これが一時的に停戦状態になるのです。そこで、アメリカ公使のハリスはこれを利用して、「アメリカは平和と人道の国であり、イギリス・フランスのように日本を植民地にすることは一切考えていな...