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長州の軍事力に幕府が完敗した第二次長州討伐

明治維新とは~幕末を見る新たな史観(15)第二次長州征伐

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
大村益次郎
長州を長らく許しがたく感じていた幕府が、ついに第二次長州征伐を行う。長州は三角貿易で得た武器によって軍事力が強化され、幕府に勝利する。今回は、第二次長州征伐について解説する。(全17話中第15話)
時間:09:37
収録日:2018/07/18
追加日:2018/12/17
≪全文≫

●第二次長州征伐と幕府の敗北


 幕府は第二次長州征伐を長らく望んでいましたが、とうとう慶応2年(1866年)に老中・小笠原長行が長州の藩主・毛利親子の隠居および減封処分を言い渡しました。これは実質的には宣戦布告です。

 幕府はペリー艦隊に匹敵する、立派な船をたくさん持っていました。そのうちの富士山丸が、まず長州藩領の周防大島を砲撃しました。その翌日には幕府の歩兵、松山藩兵が周防大島に上陸し、第二次征伐が開始されます。ハリー・パークスは長崎を出発して西郷に会い、数日に渡って交渉を行いました。イギリスは支援を惜しまないと言ったため、西郷は力を得たといわれています。

 他方、長州側は必死の状況でした。現在の広島県の芸州口周辺で幕軍と激突しており、幕府の方がずっと軍勢が多い状況でした。幕軍の先鋒は彦根藩兵でした。古式ゆかしい赤備えの甲冑を身にまとい、槍先をそろえて、法螺貝と太鼓を使った伝統的戦法で臨みました。

 それに対して、長州は2~3人1組で皆、ライフル銃を持っていたので、樹木や遮断物を利用して、狙撃を行いました。大村益次郎得意の散兵戦です。幕軍はひとたまりもなく、木っ端微塵です。

 小倉口の戦闘には、小笠原老中が向かいました。関門海峡を渡海して、一気に長州に攻め込むという計画でしたが、高杉晋作が考えた長州の軍艦による徹底的な艦砲射撃で、逆に田浦および門司に対する奇襲が行われ、なんと幕府の軍船200余隻が沈んでしまうのです。幕軍はここでも完敗です。

 石州口での最後の戦いでは、津和野藩領および浜田藩領が戦場になりましたが、幕府諸藩混成軍は抵抗せず、逃走者もおり、簡単に浜田城は占領されました。

 その浜田城落城の2日後の7月20日には、大坂城在陣中の将軍、家茂が神経痙攣を起こし、嘔吐などの症状を訴えた末、病状が悪化し、21歳の若さで病没します。幕府としてはすぐに新将軍を決め、第二次長州征伐を完遂しなければなりません。そうなると慶喜しか候補はいませんが、慶喜は難色を示しました。

 この人は駆け引きが得意なので、「やらせるのであれば、皆、頭を下げに来い」ということだったのでしょう。つまり、「私はまず徳川宗家を相続して、私自ら出陣し、あくまで武力で長州を屈服させる」と、実力で目にもの見せてやると息巻いたのです。幕府というよりも、徳川家の私戦であるという認識だったのです。

 それに伴い、慶喜は孝明天皇に決意表明を行います。長州征伐の勅を受け、刀も授かり、幕軍1万、大砲80門を備え、主戦場の芸州口に向かおうというその時、小笠原老中が戦線離脱し、要の小倉城が落城したとの知らせを受けました。もう幕府は何もできません。結局、しかたなく慶喜が将軍職に就くこととなりました。

 ところが、12月5日に参内して将軍職に就いて、それから3週間ほど後、孝明天皇が36歳で崩御します。毒殺の噂もあり、出血性痘瘡説、ヒ素中毒説など、さまざまな説が流れました。

 後に明治天皇になる16歳の祐宮が新天皇となります。祐宮の外祖父は中山忠能(権大納言)であったため、中山や岩倉具視らの反慶喜派の公家が赦免されました。孝明天皇の死は慶喜には打撃でしたが、慶喜は粘り腰で、ここから改めて政治活動を展開します。


●フランスによる幕府への支援


 ということで、長州の勝利・幕府の敗北で終わったのですが、フランスはイギリスへの対抗心を露わにし、幕府を応援し始めます。当時、フランスの公使であったレオン・ロッシュは、就任早々イギリスとの違いをアピールしました。特に4カ国のルールを破り、勝手に密貿易をしたことを問題視したのです。

 ペリー来航時、幕府は海軍力強化を進め、軍艦を購入していました。さらに海軍力を充実させるためには、軍艦の国産が必要です。それには造船所が必須ですが、造船所には莫大な費用と技術が求められます。阿部正弘老中はそれをずっと訴えていたのですが、その遺志をしっかり受け継いだのは、この時の勘定奉行である小栗上野介忠順でした。

 小栗は幕府の財政を劇的に改善し、その財力で軍事力を強化しました。彼は、もともと名家の出身で、文武に優れ、エリートであり、遣米使節の一員でもありました。

 小栗は(万延二分金という)従来の金貨に比べ金の含有量が非常に少ない新通貨を発行し、これにより、財政改善を行いました。大もうけとなりましたが、そのために日本中が大インフレに見舞われます。ともかく、ここで手にした利益で横須賀に製鉄所を造る計画を立てました。

 ロッシュは、こうした小栗の計画を支援しました。まずロッシュ海軍技師のレオンス・ヴェルニーを招聘します。ヴェルニーは横須賀がフランスのツーロン港の地勢に似ているため、横須賀での製鉄所建設を主張しました。それによって1865年に建設の契約が交わされ...
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