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新体制樹立のためのクーデター、王政復古の大号令

明治維新とは~幕末を見る新たな史観(16)大政奉還と王政復古

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授
情報・テキスト
岩倉具視
坂本龍馬と後藤象二郎の間で議論された政治綱領がきっかけとなり、大政奉還への動きが進められていく。しかし、大政奉還後、新政府の構想を練っていたのは将軍の職を辞した慶喜だった。こうした中、どのようにして王政復古の大号令が成されていったのか。(全17話中第16話)
時間:08:28
収録日:2018/07/18
追加日:2018/12/18
タグ:
≪全文≫

●薩土盟約と土佐藩の大政奉還建白


 そうして、大団円に近づいていきます。慶応3年(1867年)、坂本龍馬と後藤象二郎が土佐の藩船夕顔丸で長崎から兵庫へ向かいました。京都では、慶喜および四侯会議が開催中です。後藤は、土佐藩主の父である山内容堂にこの会議に呼ばれていました。

 この船内では、龍馬が新たな政治綱領を後藤に提示しました。1、大政奉還、2、議会開設(万機公儀に決す)、3、官制改革(有為・有力人材に官爵に付け、無実の官を除く)、4、条約改正、5、憲法制定(無窮の大典選定)、6、海軍創設、7、陸軍創設、8、通貨政策(外国と平均の法を設ける)です。これが船中八策です。

 これを受け、後藤は土佐幹部や薩摩の小松帯刀に、大政奉還論を提案しました。薩摩は慶喜が大政奉還など拒否するに決まっていると感じ、それを拒否したら倒幕も辞さないと考えていました。しかし、倒幕のための上京出兵と将軍職の廃止を建白書に書く約束を山内が渋ったため、これは実現せず、薩摩と土佐の盟約は解消となります。

 結局、土佐は大政奉還の建白書を単独で慶喜に提出しました。慶喜はそれを受けて同年10月13日、上洛中の40藩の重臣を京都二条城に招集し、大政奉還の諮問を行いました。その結果を、翌日朝廷に提出し、上表の受理を求める。朝廷上層部は困惑しましたが、後藤と小松らの働きかけで、10月15日に、慶喜同席の朝議で勅許がなされました。これにより、慶喜に大政奉還勅許の沙汰書が授与され、大政奉還が成立しました。

 大政奉還が成立したことで、倒幕派は倒幕の名目が消えてしまいました。しかし、上表では、将軍職辞任には触れておらず、将軍は依然として武家の総棟梁であるという地位は揺らぎませんでした。


●倒幕の密勅と慶喜の征夷大将軍辞職


 薩摩の藩論も、武力倒幕で一致していたわけではありませんでした。大久保利通は倒幕反対論を封ずるために、岩倉具視を通じて倒幕の密勅の降下を求めました。

 この密勅は三条実愛邸で薩摩の大久保と長州の広沢真臣に授けられました。「朕はこの賊を討たずして…」という内容です。「賊」とは慶喜のことです。しかし、どうやらこの密勅には天皇の印も何もなく、偽勅ともいえる代物だったようです。

 ところが、この倒幕の密勅を受け取った西郷は、薩摩藩兵3000を率いて4隻の軍艦に分乗し、鹿児島を出発して、京都に向かいました。小松帯刀は横で見ていて「ないごて、あげん、わぎちょるんか」と言ったとされています。つまり、もうやらざるを得ないと、それほど西郷はほとんど狂気になっていたということです。

 長州では、奇兵隊、遊撃隊など諸隊合わせて1200人を6隻の軍艦に分乗させ、藩地を出発し、安芸藩からの300名を合わせて入京しました。薩長は大規模な軍事動員を開始したのです。

 慶喜はこの動きを察知し、征夷大将軍辞職の旨も、早い段階で朝廷に申し出ました。しかし、朝廷には統治能力も外交能力もなく、事態はしばらく大政委任のままでした。そこで慶喜は、領地のことなどを連日朝廷に尋ね、その行政事務能力を問いました。これに根をあげた朝廷は、結局全てこれまで通りに、と答えました。


●慶喜の新政府構想


 慶喜は儀式が終わり、朝廷に上表を提出する前に、慶喜がイギリスに留学させて勉強させていた幕府の開成所教授・西周を呼び、国家三権の分別およびイギリスの議院制度を講義させました。西の新政権構想とは三権分立です。行政権は公府、司法権を持ち、立法権は大名たちからなる議政院で、天皇は象徴的地位を持つというものでした。公府の元首は大君で、徳川家の当主が就任し、上院議長も解散権も持っているというものです。

 要するに、西周の議題草案とはイギリスの議会主義を手本にしたもので、皇室をイギリス王室になぞらえたのです。慶喜はこうした勉強をする中で、新政府を構想していました。逆にいうと、薩長の方はこうした想念がなく、明治国家の構想も持っていませんでした。そのため、外国に見に行ったのです。


●新体制樹立のためのクーデターと王政復古の大号令


 薩摩と岩倉具視は、大政奉還でいったん倒幕の名分がなくなってしまいました。朝廷がこのままの状態で親徳川派の二条斉敬や中川宮が主導していたのでは、来たる諸侯会議も慶喜の支持勢力が多いため、結局、新体制は慶喜主導になってしまいます。

 そこでこれを阻止するため、天皇や自派の皇族・公家を擁し、二条摂政や朝彦親王など親幕府的な朝廷首脳を排除して、慶喜抜きの新体制を樹立するクーデターを画策しました。薩摩、長州、芸州3藩で、政変出兵の同盟までつくったのです。しかし、他の藩は乗り気ではありませんでした。

 四侯会議の争点は、兵庫開港問題などさまざまなものがありましたが、とにかく開港の騒ぎが激しいうちに実行しな...
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