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トルコ将軍、カラベキルの東方政策の功績とは

『中東国際関係史研究』を読み解く(2)カラベキルの東方政策

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
キャーズィム・カラベキル
「第一次世界大戦で敗戦国であったトルコが、その後の戦争処理において領土を増やして戻ってくるなどということは、まことに考えられないことだ」と、当時のイギリス外務大臣・カーゾン氏が述べている。国際関係史の常識を覆した、トルコの若き将軍カラベキルの東方政策、その功績を追う。(全3話中第2話目)
時間:15:59
収録日:2014/06/18
追加日:2014/07/10
≪全文≫

●トルコの若き二人の将軍、カラベキル・パシャとケマル・パシャ


 キャーズィム・カラベキル・パシャとは、どのような人物だったのでしょうか。彼は、まず1882年にオスマン帝国の軍人の家に生まれました。父親もパシャであり、高級軍人でした。この点、同じくオスマン帝国で1年先輩であったムスタファ・ケマル・パシャとは違いました。 ムスタファ・ケマル・パシャは、今はギリシア領となったサロニカ、テッサロニキで生まれた人物であり、父親は平凡な市民階級に属していた人物でした。

 したがって、この二人には、出生、出身の背景に違いがありました。かたやエリート軍人、かたや平凡な市民階級の出身ということで、この二人の性格が、実はその後、二人の行く手、行方というものを異なるものにしていくのです。

 20世紀初頭にオスマン帝国を苦しめた2回にわたるバルカン戦争、伊土戦争とかトリポリ戦争と呼ばれているイタリアとトルコとの戦争、それから第一次世界大戦と、この二人はいずれも若い将校として、そして、オスマン軍でも最年少の30代の将軍として、師団長や軍団長という高いレベルの軍事指導、作戦指導をしたことでも知られているのです。

 しかも、先ほどお話ししたように、ケマル・パシャは、ガリポリ半島でイギリスの軍隊を撃退したことで知られていますし、キャーズィム・カラベキル・パシャは、同じようにイラクにおいてクートという場所で、当時のイギリス軍と戦い、降伏させました。ちなみに、このクートですが、正しくはクート・アル・アーマラといい、この間のアメリカとサダム・フセインとのイラク戦争でも登場したクトと同じ場所です。イギリス軍は、非常に大きな犠牲を払ったことで、指揮官のタウンゼント将軍も捕虜になりました。その時の作戦指導にあたっていた人物がキャーズィム・カラベキル・パシャでした。二人とも若い将軍でしたが、軍人としての実績があり、内外に知られていました。特にイギリスは、はっきりとこの二人を意識していたのです。


●カラベキルの知性と洞察力は、イギリス軍指揮者にも知られていた


 この二人が、第一次世界大戦が終わった時に、イギリスの目を逃れて、イスタンブールではなく、アナトリア、すなわちトルコのアジア地域のアンカラにケマル、東アナトリアの中心地であるエルズルムという所にいたことは、まことに運命のいたずらという他はありません。

 他ならぬイギリスの有名なアラビアのロレンスという人物は、第一次世界大戦中におけるカラベキルについて、次のようなことを述べていました。

 「キャーズィム・ベイは、堅実な人柄のように見え、高い教育を受けているとの噂である。彼は、おそらくその上官である司令官の弱点、頭脳と慎重さで役立っているのだろう」と述べています。当時から カラベキルの際立った知性と鋭利な洞察力は、イギリス軍の指揮者の中にも知られていたのです。

●英・土・露が他の二国を対決させて漁夫の利を得ようとする国際関係の構図


 イギリスは、講和を実現して何とかトルコを分割し、最終的にはトルコという国家を事実上消滅に追い込みたいと考え、そのような政策を当時の首相ロイド・ジョージは採っていました。その結果、手法として、アルメニアとギリシアを使おうとしたのです。

 カラベキルが主として担任したのは、アルメニアを中心とする東方地域の対応でした。その際に、カラベキルは、正面からアルメニアと事を構えるという方法を採りませんでした。むしろ、ロシアの圧...
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