●仲介役は山岡鉄舟、勝海舟から西郷隆盛への書状
ここからは事態がどのように展開したかを皆さんと一緒にたどっていきます。どうぞ実際にそこにいて観察しているような気持ちで聴いてください。
(徳川慶喜親征の詔を受けて)慶応4(1868)年2月15日に京都を発った有栖川宮は、3月5日に駿府城に到着します。この時、先遣軍は小田原を制圧。駿府城で行われた軍議により、3月15日をもって江戸城総攻撃の日とすることが決定します。
徳川方の総大将は勝海舟。実のところ勝は、榎本武揚の軍艦が8隻もあったため、これを使って総力で臨めば薩長に対抗できるという腹でしたが、戦争はせず、談判で有利な条件を勝ち取ろうともくろみました。勝は、総督府参謀として駿府に来ている西郷に手紙を書きました。「徳川家は君臣共に恭順だが、江戸士民の中には戦争となればどんな大変が起こるかは分からず、貴方の責任で条理を正して処理してもらいたい」という趣旨でした。
この手紙を託された山岡鉄舟が、3月9日に駿府で西郷に面会し、この席で初めて政府側の降伏条件が明らかにされます。それは、徳川慶喜を備前に預け、城を明け渡し、軍艦・武器一切を政府軍に渡すという条件でした。山岡は西郷に「徳川は完全に恭順の意を示しているのだから」と伝え、備前藩預けに強く反対を述べたと言います。
●西郷・勝対談で、ものを言ったのは外圧だった?
西郷は3月11日に駿府を発ち、13日に江戸高輪の薩摩藩邸に入ります。勝は、西郷軍が行く進路ごとに後ろに火を放って江戸を火の海にしてくるという噂を聞いていたため、「それならこっちが先に火の海にする」という秘策を持っていました。そういう策を胸に、両者は会談を行うわけです。
3月13日、西郷が勝に慶喜の降伏条件を示すと、勝は若干質問を加えた後、翌14日に改めて西郷を訪ね、さまざまな嘆願を行っています。
「慶喜の備前藩預け」に対しては、水戸で隠居ということにしてくれないか。「慶喜を助けた諸侯の謝罪実行(切腹を含む)」に対しては、少し重すぎるので命は救ってほしい。「軍艦・武器一切を政府軍に渡す」ことについては、取りまとめて寛大な処置を行われた後、相当の員数を残して渡してほしい、などが嘆願内容でした。
西郷は、勝の嘆願とは思えぬ要求に対して、納得できないものを感じはしたけれども、簡単に拒否できない事情がありました。それは、イギリス公使パークスが「恭順している者を攻撃すべきでない。英国民など、居留民の安全が大切である。それを保障できなければ、新政府は信頼しない」と圧力をかけていたからです。この一札は厳しいもので、薩摩が成功したのはイギリスの支援のおかげでしたから、勝の意見も相当入れることで決着しました。
●無血開城すれども、旧幕府軍の砲撃止まず
これにより、勅使が江戸城に入って降伏を決める条件が勅諚として出されます。こうなると、もう逆らうことはできません。4月11日、江戸城は平和のうちに政府軍によって開城されました。
ところが、開城された途端、徳川方の将兵が大量に兵器を持ち出し、江戸から千葉その他でゲリラ戦を展開します。28日には4艦の軍艦が新政府に引き渡されますが、うち軍艦として使えるのは「富士」だけでした。後の優秀な軍艦は全て、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚の元にありました。
榎本は、無傷のまま江戸湾から陸を見つめていました。「徳川家の扱いが決まるまでは一歩も引かない」と言ったという逸話が有名です。結局、江戸城は開城したものの、政府軍はここで行き詰まります。ゲリラは白熱する。上野の彰義隊は膨れ上がる。仙台に上陸した奥羽鎮撫軍もあまり成果がない。不穏な情勢になったわけです。
政府軍の内部は、武力で決着をつけようという強硬派と、温和に進めようとする派の両派に分かれて収拾がつきません。この分裂を決着させたのが大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らの強硬論であり、極め付きが大村益次郎による上野掃討作戦でした。
●上野彰義隊と名将・大村益次郎
慶喜が上野寛永寺に謹慎した2月12日以降、一橋家の家臣らが集まって会合を重ねているうち、有志の数がどんどん増え、開城の頃には2000人規模に膨れ上がっていたのです。「彰義隊」と自ら命名した彼らは、すでに一触即発の様子でした。
大村益次郎は、この彰義隊を打破して江戸・関東を平定する任務で遣わされてきました。政府内からは「お金もないし、兵力も足りないし、無理だろう」との声もありましたが、大村は「そんなことはない。兵は3000もあれば十分に制圧できる」と言います。政府軍の火砲の威力に自信を持っていたのです。
いよいよ掃討の当日が来て、5月15日の早朝、雨が残る中を政府軍が進発します。この日、大村は公家の三条実美と一緒に江戸城の西の丸のやぐら...