●榎本海軍、品川沖から仙台へ
一方、江戸開城の4月11日夜半に品川沖から脱走した榎本武揚率いる旧幕府海軍は何をしていたか。
4月19日になり、東海道先鋒総督府から田安(徳川)慶頼に、「主家を思う至情に感心」して榎本の願いを入れ、軍艦のうち4隻を榎本に与えます。他の4艦は朝廷に差し出すように、と譲歩があります。榎本は、それを受け止めますが、追撃される可能性を低めるため、性能の良い艦は引き渡しを避けようとします。勝海舟が間に入って調停したため、これは事なきを得ます。
榎本たちはこの後、蝦夷地へ向かいますが、一枚岩の体制ではありませんでした。多くの者が東北諸藩を助けたいと願っていたからです。しかし、勝が榎本に忠告を与えます。
「会津藩を信ずるな。東北諸藩は勝つ見込みがない。東北諸藩と同調して政府軍と戦うと朝敵行為になる。徳川家の存続が保障された今、それは意味のない行為だ」
そのため、榎本はある意味で、東北を見捨てることになります。ただ、9月初旬に榎本艦隊が仙台に入港したため、多くの将兵がそれを聞きつけて、同乗を願いました。榎本一行は2500名にも膨れ上がります。
●蝦夷地を占領した「榎本政権」の抱いた理想
明治元年10月20日、榎本艦隊は、雪に埋もれた蝦夷地の鷲ノ木に到着します。あえて函館から400キロも離れた寒村を選んだのは、函館にいる政府の守備隊を刺激しないためでした。上陸した榎本軍は二手に分かれます。今は温泉で著名な湯の川方面へ向かったのは新選組の土方歳三隊、大沼方面へは大鳥圭介隊です。この頃、函館の政府軍は約1500名による防御体制を取っていました。
函館の戦争は政府軍の夜襲に始まりますが、榎本軍はたちまち政府軍を圧倒します。なんといっても新選組をはじめとする歴戦の勇者ぞろいであり、戦意の高い集団だったからです。五稜郭と函館を制圧し、陸軍部隊は多大な戦果を挙げます。ただし、海の方では得意の軍艦が嵐にあったり座礁したり、あまり見る影がありませんでした。
とはいえ1カ月ほどで、榎本軍は蝦夷地を占領し、榎本王国建設のための行政機構を整備します。事実上の「榎本政権」がここに誕生したわけです。ただし、榎本政権は独立国をつくるつもりはありません。榎本が求めていたのは、天皇の政権を認め、いわば蝦夷地の徳川藩として、天皇政権の藩屏の地位に甘んじることでした。
●二つの誤算により潰えた「榎本王国」のドラマ
ところが、「榎本政権」には二つの誤算がありました。一つは、外国から思うように武器が調達できなかったことです。
榎本らはしばしば列強のいう「局外中立」を頼んでいました。局外中立することで外国は自由度が増すからですが、彼らは新政府の立場を立て、局外中立をせず、榎本軍を賊軍と見なし、政府側につきました。そのため、武器は一切提供しない。これは、榎本軍の大誤算でした。
それから、政府に従わない武装集団は決して認めないという手厳しい対応を政府が取り始めたのも、(寛大な措置を期待していた)榎本らには誤算でした。
政府は甲鉄艦「Stone Wall号」を入手し、春を待って行動を開始します。政府軍は4艦、榎本軍も4艦でしたが、運悪く嵐に見舞われ、榎本軍はばらばらになります。1隻残った「回天」が思い切って「Stone Wall号」に体当たりし、甲板に乗り上げて躍り込もうとしますが、10数メートルもの落差があり、逡巡するうちに砲撃を受けてしまいます。
このような経緯で4月9日、政府軍が蝦夷地に上陸し、函館を占領。この日の戦闘で新選組副隊長・土方歳三は銃槍が腹部を貫通、戦死します。5月17日、政府軍参謀・黒田清隆が榎本らに降伏を勧告します。
榎本は「もともと無用な戦いをするつもりはない。徳川家臣のための戦争だ。それさえ保障されればもうやることはない」という返事とともに、オランダから持ち帰った稀書『海律全書』を黒田に送ります。黒田からは礼状と酒5樽が届いたというから、いい時代です。
このようにして、榎本海軍の戦争ドラマも終わります。5月の中旬をもって、戊辰戦争の全てが終わりました。1年半のドラマです。