●鹿児島に帰り、「私学校」をつくる西郷隆盛
いよいよ西南戦争が起こります。よく知られている史実ですが、この機会に事実関係をフォローしておきましょう。
明治6(1873)年の政変で西郷隆盛が下野すると、鹿児島士族の大半が郷里に帰ってしまいます。天皇陛下はこれをとどめようとしますが、聞く者はなく、西郷に従って帰ってしまう者ばかりだったので、大変不穏な状況になります。
西郷は、鹿児島に「私学校」をつくります。戊辰戦争による賜金があったので、それを用いて学校をつくり、不平士族の受け皿にしようとしたのです。内容的には精神修養の団体ですが、その一環として武芸に励むこともありました。
世間は西郷の一挙一動に注目していましたが、西郷はそれらに背を向け、帰郷してからの3年あまりは畑仕事や山野での狩猟に励んでいました。いろいろな人が会いに来ましたが、そのほとんどが密偵で、彼は常に観察されていました。
●江華島事件を経て内乱の時代へ
この間に、日朝の国交問題が解決したことになっています。明治8(1875)年5月、日本海軍の「雲揚」という軍艦が調停のために派遣され、江華島の水道河口からは陸に向かったところ、江華島の砲台から砲撃を受けたのです。翌日には報復攻撃を行い、砲台を焼き払って一時的に占領しています。これを機に朝鮮問題解決が志向されます。全権大使として派遣されたのは黒田清隆。明治9(1876)年2月には日朝修好条規(江華条約)が結ばれます。
この経緯に対し、西郷は「とんでもないことをしてくれた」と反発しますが、後の祭りでした。国交樹立により征韓論の議論が消えたところで、士族の不満が内側に向けて爆発します。まさに一触即発の状態となり、この後に大変な反乱が続くわけです。
まず、熊本の敬神党(神風連)が廃刀令に反発し、福岡の秋月士族が続きます。次には山口で元参議の前原一誠が蜂起して斬首されます。
瞬く間に鹿児島の情勢も非常に不穏になってくるのです。私学校では西郷を狩猟や温泉から引き離そうと相談しますが、肝心の西郷は「焦るな」と抑制するばかりです。
●警察が仕掛けた罠か、私学校士族の暴走か
中央から見ると、私学校の者たちは何をやっているか分からない危険集団そのものではないかということで、明治9年暮れには警視庁幹部の川路利良が元締めとなり、何十人もの警察官が調査に入り説得工作をしようとします。
ところが、私学校の生徒(士族)たちは中央への反感に満ちていますから、警察官はすぐ捕えられ、拷問されて「西郷暗殺計画がある」と口走ってしまいました。それを聞いた彼らは、鹿児島に蓄積されていた政府の火薬庫を次々と襲撃します。
急を聞いた西郷は狩猟先から戻り、息子の菊次郎から詳細を説明されて「しまった」と叫びます。「かかる挙動を成しては、天下に対して顔なし。事ここに極まれり」、まさかここまでするとは思わなかったと言った、と伝えられます。部下に優しい西郷は、何も処分やけん責をせず、彼らに引きずられていきます。
政府側はまさか西郷が挙兵するとは思っていません。特に大久保利通は、西郷が名分を非常に重んじる人なので、蜂起するための名分がなければ動かないと信じていました。
ところが、くだんの西郷暗殺計画には大久保も加担していたという噂が西郷の耳に入ります。幼い頃から一緒にやってきた大久保がなぜ、と彼は耳を疑ったようです。大久保の方も「西郷に限って軽挙妄動すまい。実際に会えばなんとかなるだろう」と思っていました。
私学校の議論では、西郷自身が上京して暗殺計画について政府を問い詰めればいいとの意見もありましたが、「単独上京しても、抹殺されるだけではないか。皆で兵を挙げて行くしかない」という強硬策が決議されます。
●名分なき戦争により、西郷らは官位剥奪され「賊軍」に
結局、熊本鎮台から薩軍が接近してくるという情報により、政府側は勅使を派遣することができなくなり、戦争に突入します。薩軍の名分は「暗殺計画について、政府に尋問の筋、これあり」だけです。これでは名分にならないと誰もが思っていたようで、福沢諭吉はその薄弱さについて書き残しています。「第一に薩人たる人民の権利を述べ、従って、今の政府の圧制無状を難じて挙兵すれば、広がりや正当性が増したかもしれぬ」との論評です。
戦争は2月22日に始まり、最初は田原坂の戦いに薩軍が勝ち、政府軍を熊本鎮台に籠城せざるを得ない状況へ追い込みます。25日になると、それまで正三位陸軍大将だった西郷、正五位陸軍少将だった桐野利秋と篠原国幹の官位が、反乱の挙動により剥奪されます。ここで、政府は彼らを「賊軍」と定めたわけです。きっと大久保は苦しかったことと思います。会いたいと思っているうちに会えなくなってし...
(鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年画)