●江戸時代の最高のプレゼントは「刀剣」だった
皆さん、こんにちは。現代人も昔の人も、贈答、現代風にいえばプレゼントは、もらう方も差し上げる方も心が弾む、一種の晴れの儀式です。ですが、現在のように物があふれかえっている時代では、もらって嬉しいものが何か、あるいは絶対に誰でも最高と思うプレゼントを決めるのは難しいものです。誰もが最高と思うものが必ずしも一致するわけではありません。
例えば、車好きであれば、ランボルギーニやフェラーリ、ポルシェといったスポーツカーがもらって最も嬉しいプレゼントだと思うかもしれませんが、私のように車にまったく関心のない人間には、ランボルギーニやフェラーリ、ポルシェも、どこが違うのかというくらいの関心のなさです。このように、人によって関心事が違うのが現代の特徴かもしれません。
しかし、江戸時代、徳川の時代においては、武家社会に関する限り「最高のプレゼント」というものがありました。それは何といっても刀剣でした。刀剣こそが最高の贈答品でした。それは昨今の刀剣ブームで日本の若い女性にも人気のある芸術美もさることながら、独特な輝きと精巧な研ぎが相まって醸し出す刀剣の魅力は、まさに武家の魂の象徴とみなされたからだと考えられます。したがって刀剣が人気だった次第です。何かの公式行事のときにも、あるいは私(私用)の贈答においても、「最高のプレゼントは刀剣だ」と言って間違いない所以です。
●刀剣は武家社会で果たした儀礼的な役割
日本近世史の専門家である深井雅海(ふかい・まさみ)氏が『刀剣と格付け』(吉川弘文館)という興味深い本を2018年に出版されました。これは武家社会における贈答品として中世以来重視されてきた刀剣について、美しい写真も交えて紹介された本で、刀と社会の交わりについて触れられています。例えば、亀甲貞宗や包丁正宗といった国宝級の刀剣も知られていますし、道誉(どうよ)一文字などの御物も美しい写真で紹介されています。
この本で私が特に興味を感じたのは、刀剣が武家社会で果たした儀礼的な役割です。とくに将軍家と大名家との刀剣贈答は、徳川家康から11代将軍・徳川家斉(いえなり)までの間に1841件も行われた記録があります。そのうち、家督相続の御礼として刀剣が献上されたケースが408件、昔の言葉でいう致仕(ちし=隠居)の御礼が137件にも上っています。この両者を合わせると、刀剣贈答全体の約75.6パーセントにもなります。この刀剣贈答の中で、家督相続と隠居挨拶、いずれにしても御礼に用いられたケースが大変多いことが分かります。
他には、参勤交代に際して国へ帰る暇乞いの御礼、将軍が大名等に遣わす褒美、あるいは大名邸へ御成(おなり)になったときの下賜品等に、刀剣が惜しまずに使われました。もちろん、どの世界でもそうであるように、刀工にもランキングがあり、ランキングに応じて「格」が決まっていたのも興味深いことです。最上級は粟田口(あわたぐち)国吉、粟田口吉光、越中義弘、相州正宗、この4名が最も傑出した名工だとされています。
●大名より刀剣の方が格上?
将軍の下賜品といえば、刀だけでなく金銀や時服も含まれました。しかし、下賜品の中でも刀剣は断然トップに位置しました。江戸城中には黒書院、白書院、大広間といった儀式用の大きな部屋がありましたが、例えばこの3つのうちどの部屋が使われるか、あるいは着座の際の将軍と大名との距離は畳どれぐらいなのか、また、段の違う部屋で遥か遠くに見て渡すのか、どこに大名は座るのか。さらに、誰が下賜品や献上品の進達をするのか。このあたりは資料を読んでいても流れるような思いがします。江戸城の儀礼の華といっても良いでしょう。
深井氏の本著によれば、尾張徳川家8代目義淳(のちの宗勝)の家督相続の御礼は、将軍の生活空間であった「奥」(または中奥)に一番近い「表」の代表的な儀礼空間である黒書院で行われました。黒書院は大広間や白書院よりもやや小ぶりでしたが、それでも上段は十八畳、下段は十八畳、囲炉裏の間は十五畳、西湖の間は十五畳からなっていました。周囲は全て入側(いりがわ)で囲まれ、溜の間(松溜)は二十四畳もついていました。
入側は、廊下と勘違いしやすいのですが、「縁頬(えんづら)」とも呼ばれた場所のことです。現代でいう縁側と考えて良いでしょう。ただし、現代と違うのは、そこに畳が敷かれていたことです。そこもまた人々が待機し、控える場所になりました。これを当時「入側」と呼び、入側だけでも約百九十畳もの広さで畳を敷いてあったそうです。
儀式の面白さはここから始まります。献上の刀をどこに置いたかというと、下段上から四畳目に置きました。お金、金銀は五畳目に置かれました。綿にいたっては入側の上から一畳目に...