●気仙沼で学校の仕事に専念した辞職後の3年間
―― しかし、37歳で初当選、そして40歳で一度辞職されてから、次の復活当選まで3年間。その3年間を勉強しながら耐えていたというのが、すごいですよね。
小野寺 少しだけ分かるのは浪人している方とか、あるいはいろいろな形で、たまたま犯罪の中に巻き込まれ、もしくは犯罪者ということを受け入れて、その後一定の期間を過ごされている人の気持ちはよく分かります。
まず、辞職した後はテレビ、新聞、一切政治のニュースを見るのが本当に嫌で嫌で仕方がなくて、もっぱらそういうことは見ずに、古い映画を見たり、全然違う分野の本を読んだり、意識としてもそこに関わることはしたくないような状態でした。もちろん政治家の仲間とも全く縁がない中で過ごしていました。
―― そのときは地元で過ごしていたのですか。
小野寺 地元で過ごしていましたが、ただ何かしないといけないなという気持ちはあったので、実は地元に学校を作ったのです。専門学校なのですが、介護の専門家を養成する介護福祉士の養成施設を作りまして、そのときは理事長として自分が教鞭をとりました。こういうときは自分が大学で教えていたという経歴が効きますね。
また、介護養成施設は厚労省の認可が必要ですから、その申請をして認可をもらうときの申請書を全部書いたり、厚労省の検査官が立ち会う中で、直接説明をしたりしました。ですから、介護の現場のことは結構詳しいと思います。一応そういう学校で学生に教えて、一定の期間、養成をしていましたから。
こうした人材の養成を目指したのは、やはり、気仙沼というところで高校を出ると、皆、町を離れて遠い仙台や東京に行かなければならない。そうすると故郷には帰ってこないからです。地元で就職して残れる、しかもある程度の国家資格が取れるという分野だと介護の資格だったものですから、それで地元で卒業しても気仙沼を離れずにちゃんと勉強できて、その後就職できる環境ということでその専門学校を作って、議員を休んでいる期間は学校の仕事に専念しておりました。
●政治家として味わった大きな喪失感
―― 復帰の直前まで選挙に関係ない生活だったのですね。
小野寺 本当にまた、選挙に出られるとは思っていませんでしたし、ましてや公民権停止ですから、基本的には政治活動とは一切無縁でした。本当に寂しいものですよ、選挙のときに選挙はがきが来ないのですから。
投票権がないということ、これは民主主義国家の中でどれほどの大きな喪失感であるか。特に政治家であった人間が被選挙権のみならず選挙権すらないという、これはどれだけの喪失感であったかというのは身に染みて感じております。
―― それを耐えた小野寺さんも偉いですけれど、奥さんも偉いですね。
小野寺 本人が本当に自分のことを偉いと思っているかどうかは分かりませんが、私にはよく冗談めかして「私が偉かったでしょう」と言います。支えてくれたことは事実だと思います。ああいうときは、むしろ女性のほうが腹が据わっているかもしれません。
●身に染みた加藤紘一先生のアドバイス
小野寺 一つ思い出しました。私が議員辞職を決めた当時は、確か加藤紘一先生が幹事長で、私は鈴木善幸さんがいたので宏池会に入っていたのですが、議員を辞めるときに宏池会会長でもいらした加藤先生から電話がかかってきてアドバイスをいただきました。辞任の記者会見の直前でした。
そのときに加藤先生がこうおっしゃったのです。「いや五典君、これからあなたが言う言葉、これは心を込めて、有権者の皆さまにおわびの気持ちを込めて、一言一言、自分の言葉で話しなさい。あなたのその言葉を有権者の方々は必ず覚えている。あなたがこの次、立候補するときまで必ず覚えている。そのことを信じて、心を込めてお話しをしなさい」というのがアドバイスだったのです。
そのアドバイスがよみがえって分かったのは、先ほどお話しした復活選挙のときです。選挙期間中、「どうして皆さんこんなに応援してくれるのだろう」「なぜこんなに集まってくれるのだろう」と、日に日に思うようになりました。実はあの加藤先生の言葉がそのときよぎって、本当にいい言葉をいただいたと思いました。今でもあの言葉は私の生涯を支えてくれた言葉だと思っています。
でも先生のアドバイスを聞いたときは辞任の会見の直前で、半べそをかいてパニクっている状態ですから、あまり素直に聞こえていなかったかもしれません。ただ、結果として後で復活当選する選挙のときに、その言葉が肌身に染みました。
―― その加藤先生のアドバイスに則して、一言一言語っていたのですね。
小野寺 本当に重い言葉で、私の置かれている立場を全てのみ込んだ上でのアドバイスだったのだと思います。もしかしたら...