●解説書の9割は外れている
―― 行間を読む、行間から浮かんでくるというのは、読書家でない人にはすごくわかりづらいように思います。どのような感覚なのでしょう。
執行 書いてあることを鵜呑みにするのでなく、「なぜ書いたか」を考えることです。「なぜ、著者はそう書いたのか」、それを考えながら読むことが行間を読むということです。それを続ける中で、ベテランになると行間が読めるようになるのです。
だから読書の根本は、神秘に対面することです。神秘と対面しようと思わなければ読書はできません。
同じようなことが、アルベルト・マングェルの『読書の歴史』に書いてあります。アルゼンチンの有名な人で、実業家、ジャーナリスト、哲学者を全部兼ねているような人です。この人も読書が好きで、『読書の歴史』に「読書は泣くために読みなさい」とあります。これが行間の感動で、泣くためにその人と魂を共にするのです。泣くためにのみ読む。損得ではないということです。
「誌面の中にある神秘と対面しなさい」とも語っています。これが僕の言う神秘なのです。だから役に立つ本を読む人は、神秘とは対面できません。神秘ではないので役に立つわけですから。そうではなく、神秘と対面しなければダメなのです。
僕は文学を読む場合も、最初に解説書を読みません。たとえばドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』なら、まず、その本自体を読みます。たいてい内容はわかりませんが、この混沌としたわからないところから、ドストエフスキーの魂が浮き上がってくるのです。学問的に興味があれば、あとで解説書を読めばいいのです。
解説書は、僕自身の人生経験で言うと9割方はまったく外れています。若い頃、勉強のために読みもしましたが、当たっているのは10に1つで、そのくらい解説書はダメなのです。解説書はそもそも哲学や文学のハウツー本ですから、ほとんど僕は読みません。
―― 読めてないわけですね。
執行 読めてない。解説書が当たらないのは、僕が一番大切にしている神秘と対面しないからです。神秘と対面するには、「役に立とう」とか「その本を読んで会社で出世したい」などと思ってはいけません。思えば神秘は消えてしまいます。
神秘と対面するには、自分の生命で死ぬために読まなければダメです。「自分は、自分の生命を全うして、1人の人間として、いい死に方がしたい」と思うと、神秘と対面できるのです。
では神秘とは何かというと、相手の魂だと思うのです。神秘が魂で、魂とは断定できるものではありません。「あの人はこうだ」という断定は、あまりに軽すぎて人間の深みがわかっていません。わからないから神秘なのです。読書も同じです。だから僕の言葉としては、神秘と対面するために「役に立たないものを読め」「死ぬために読め」となるのです。
――「相手の魂と触れ合え」ということですね。
執行 そうです。そして魂は、絶対に掴めないものなのです。それがわからず「掴んだ」と思った人はダメです。
●「わかった」と思うから掴めなくなる
―― 魂は掴めないのですね。
執行 掴めません。掴めないから、人間というのは、実は昔は「謙虚さ」が生まれたのです。これは変な言い方なのですが、たとえば昔は見合い結婚でした。そして「男は女をわからない」「女は男をわからない」と教育されて、そう理解していました。そう思って一生涯つきあったのです。だから僕の親父とおふくろまでの世代は、悪い言葉で言うと「夫婦は化かし合い」などと言っていました。それで離婚がなく、お互いに立てる関係を築けていたと思うのです。
今の男女はお互いを「わかった」と思っているから、相手の中に踏み込んで不快にさせてしまうのです。友達もそうですが、なまじわかったと思うと人間は、ものすごく傲慢になります。
―― 確かにそうですね。同じですね、個人でも。
執行 だから昔は夫婦も、わからないと思うことが、立てあうことにつながるのです。わかったと思ったら、相手を思いどおりにする、または踏みつける。思いどおりにならなければ、投げ捨ててしまう。今のママゴンもそうです。子供のことをわかったと思うから、子供を締め付ける。でも僕のおふくろは、死ぬまで僕に何も言いませんでした。たぶん昔の人ですから、「男の子だから母親にはわからない」と思っていたのでしょう。
本も同じだということです。「行間を読む」の意味がわからないというのは、読む気がないからです。これは「読もう」と思わなければダメなのです。「行間を読めない」と思うのは傲慢だからです。自分は何でもわかっていると思っていたら、わからないことは受け付けられず、これでは行間は読めません。
―― 最初からはねてしまうのですね。
執行 僕が行間が読めるのは...