10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
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日本の軍人の多くは「武士道」のような美風を失っていた

戦前派一日本人の憂鬱~太平洋戦争と敗戦後を顧みて…(2)

野田一夫
一般財団法人 日本総合研究所名誉会長
情報・テキスト
水師営会見 乃木将軍とステッセリ将軍
太平洋戦争敗戦から来年は早くも70年。「あの敗戦に学ぶべき教訓とは?」…。“徴兵検査”を受けた最後の世代である野田一夫氏が、自身の経験と知見に基づき、明治、昭和、平成、三つの時代を回顧しつつ、“戦後民主主義の劣化”に警鐘を鳴らす。
時間:13:49
収録日:2014/07/18
追加日:2014/08/22
 太平洋戦争が無条件降伏で終った時、僕は満18歳で、旧制高校理科の学生でした。その前年に兵役法が改正されて徴兵検査は「満17歳の男子」の義務となりましたから、僕は敗戦直前に徴兵検査を受けて“甲種合格”。召集令状が来る前に日本は無条件降伏しましたから、軍隊経験はありません。ただし、“学徒出陣”で何人かの文科系の先輩が本心を吐露しえないまま召集に応じて行ったことを経験しましたから、戦後出版された『きけ わだつみのこえ─日本戦没学生の手記』(岩波文庫)を読むと、今でも涙が止まりません。
 
 当時は、召集された本人は、その友人はもとより家族にすら本心を口にすることができない時代でした。僕の記憶では、日本の社会状況が本当に息苦しくなったのは、1940年の大政翼賛会結成を契機としてでした。小学3年生の夏に日中戦争は始まり徐々に中国戦線は広がって行きましたが、中学高学年の頃までの国内は、少なくとも一般庶民が自分の発言を気にするほどの社会的緊張感はありませんでした。ですが、全政党が解散し、過激派の陸軍幹部が事実上完全に政治を支配する体制が確立されたのを契機に、国家や戦争への懐疑や批判を口にする者は即“非国民”として当局から睨まれて拘束の対象となる時代になり、言論の自由が完全に失われた段階で、日本は太平洋戦争に突入したのです。

 僕の幼少期から青年時代にかけて、父は三菱重工業の航空機部門で海軍の軍用機開発の総責任者でしたが、海外経験も多かったので、「アメリカと戦っても勝てない。戦ってもせいぜい半年」と公言していましたから、多分当局からはマークされていたでしょうが、立場上からか、不思議と拘束されたことはありませんでした。海軍軍人ながら若い頃 MITへの留学経験まであった連合艦隊司令長官・山本五十六氏とは気が合ったらしく。『山本語録』に遺された言葉の多くは、父の日常の発言にそっくりで、驚いたものです。

 明治18年生まれの父は青年時代に日露戦争を経験していましたから、太平洋戦争勃発前後の日本の指導者の言動や、それに同調したマスコミの「鬼畜米英撃滅」といった愚かしいほど過激な表現に、強く反発していました。開戦早々本土に収容された英米軍の捕虜に「おかわいそうに」と同情した日本人女性は、マスコミを通して強烈な社会的バッシングを受けましたが、確かに明治時代と違っていたことは明らかのようです。あの日露戦争末期の旅順攻防戦に参加している弟に向けて「君死にたもふことなかれ」という有名な詩を文学誌に投稿した与謝野晶子は、世間から厳しい攻撃を受けることもなかったのです。

 また、日露戦争の山場と言うべき旅順攻防戦に敗れたロシアの将軍ステッセルが、降伏の意を告げるべく乃木将軍を訪れた際、その攻防戦で二人の息子を戦死させていたのに、乃木将軍は己の感情を抑えて敗軍の将を手厚く遇し、温かくねぎらいました。これらを経験した明治18年生まれの父には、そうした日本古来の“武士道”の精神がまだ脈々と受け継がれていたと信じます。それに引き換え、権力を笠に着て自国民をすら見下していた太平洋戦争時の日本の軍人の多くは、緒戦の勝ち戦でますます思い上がり、敵国軍人に対し“武士の情け”を持って対するような精神的余裕は、全く失っていたと思います。

 その典型例は、緒戦のシンガポールの陥落に際し、降伏を伝えに来た敵将パーシバルに対し日本陸軍の総司令官だった山下将軍が「…イエスかノーか」と迫った高飛車の態度は、乃木将軍とは対照的だったと言えるでしょう。しかも、当時の日本の新聞やラジオはこぞ...
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