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『神皇正統記』の内容とは…3つの重要な要素

神皇正統記と日本人のアイデンティティ(2)正直・慈悲・決断

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
北条泰時
『神皇正統記』の歴史観・世界観を支えるのは「正直・慈悲・決断」の三要素である。この三つに照らした本書における北条泰時への評価や、承久の乱に対する解釈に触れつつ、建武の新政の挫折の原因について、北畠親房がいかなる反省を試みたのかを探る。シリーズ「日本の歴史書に学ぶ」第2弾(2/3)
時間:09:55
収録日:2014/03/27
追加日:2014/08/28
≪全文≫

●「正直・慈悲・決断」は政治的な立場を超える


 『神皇正統記』の歴史観・世界観には、揺るぎない筋が通っています。それは、三つの重要な要素に支えられながら歴史を見ようとしているところです。一つは正直、一つは慈悲、一つは決断という要素です。

 北畠親房は、政治的な立場がどうであれ、歴史はこの「正直・慈悲・決断」の三つの要素に依拠することによってきちんと見なくてはならないし、責任を持たなければならないことを、筋道立てて書こうとしました。

 南朝方の最も重要なリーダーでありながら、南朝方がかくのごとき悲運と不幸に遭っている原因が自分たちの中にもないだろうかと、真摯に反省している書物でもあります。

 また、鎌倉幕府がいったん滅びたにもかかわらず、足利幕府として再建されたのは、武家方には、政治的な支持を受けるだけの徳望や支援を受けるだけの根拠があったのではないかと考えています。こういう点についても、真面目に反省しようとした書物なのです。

●北条泰時への評価の公正さ


 こうした問いかけは、おのずから『神皇正統記』のあちらこちらに顔を出しています。中でも私にとって印象的なのは、他ならぬ後醍醐天皇が倒した鎌倉幕府の第三代目の執権、北条泰時に対する評価の公正さです。

 北条泰時は、前回ご紹介した『吾妻鏡』で触れた北条義時の子どもです。政所の執権、すなわち鎌倉幕府政治の事実上の最高責任者として、幕政をつかさどった泰時についての親房の評価はすこぶる公平で、およそ次のように言っています。

 北条泰時は朝廷の意思を重んじ、地頭(地方の武家の徴税人、支配者)の欲しいままな暴虐や欲しいままなまつりごとを禁止したために、北条の名、世代においては兵乱も起きず、そして天下も安定した。

 父親の義時はさしたる才能もなかったけれども、義時が死んだあと、子どもの泰時は善政をしき、法や御成敗式目(貞永式目)を制定して、自分も他人もともに戒めた。すなわち法の支配を徹底した、と言うのです。

 ところが北条の政権は、このような泰時をもってしても、ついには滅びざるを得なかった。これはやはり「天命」というものに他ならないと、彼は歴史観を語ります。

 しかし、北条の政権すなわち義時の得宗家が7代も続いたのは、泰時の「余徳」であり、彼のさまざまな権威や努力によるものであるから、幕府が滅びたからといって、泰時の治世やその評価について、われわれ南朝方が不快に思う必要はない、と親房は言い切るのです。

●「保元・平治の乱の後」を謙虚に問いなおす


 「かつて保元・平治の乱というものが起きた」と、親房はこう語ります。保元・平治の乱は、平清盛が最終的な勝利者として、源氏の源義朝を倒していくにつながる、あの大きな武家政治を究極的にもたらしていく内乱です。これ以来、無秩序状態となった国内に、もし源頼朝や北条泰時のような人物がいなかったら、どうだっただろうか。「日本国の人民いかがなりなまし」(日本の人々はどのようにあいなっていただろうか)このように親房は問いかけます。すこぶる謙虚な問いかけだと思いませんか。


●政治の良し悪しで天皇の御運の良し悪しも決まる


 このように、北畠親房は後醍醐天皇の南朝の中心であったにもかかわらず、武家方が全て悪いというような一方的な、ゆがんだ歴史観はとりませんでした。むしろ彼は、頼朝や泰時が世の中を平らにし平和をもたらした理由を見極めていない人たちが根拠もなく、天皇の権威が衰え、権威を失った理由を、武装していなかったからとか、軍備を持っていなかったからだと言うけれども、その考えこそ間違っていると断定するのです。

 さらに親房は、「人民あっての天下なのだ」とさえ言います。天皇は尊い存在ではある。しかし一人だけが楽しみを享受し、万民を苦しめることは、天も許さず神も祝福しないと言い切ります。これは相当に思い切った表現と言えるでしょう。

 すなわち、政治がよいか悪いかによって、天皇の御運、天皇の持っている運も良し悪しが決まる。ここまで思い切ったことを親房は語っています。これは、現代の政治学で言う「政治とは結果責任だ」ということに他なりません。


●現状以上の徳政がなければ政権の転覆は容易ではない


 それどころか、北畠親房は歴史家として、後鳥羽上皇が天皇や朝廷の権威の復活のために企てた1221(承久3)年の承久の乱についても疑義、疑問を呈します。この政変は『吾妻鏡』のくだりで北条政子の台詞も紹介しましたが、親房は「人望を失わず、失点も格別になかった鎌倉政権を追討する前に、まず自らの統治資格を問題にすべきではなかったのか」と振り返ります。

 頼朝の死後、特にこの鎌倉政権には「きず」もなかったし、万民の肩も休まったし、苦しまなかった。こうした政...
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