10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
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ハプスブルク帝国とオスマン帝国に共通する性格とは?

帝国に共通する性格とは何か~民族紛争の火種を知る~

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
オーストリア=ハンガリー帝国(1911年当時)
山内昌之氏には、熱心な世界史ファンからの質問が寄せられる。今回採り上げたのは「ハプスブルク帝国とオスマン帝国に共通する性格とは?」との問いだ。「帝国=悪」の図式や「講和条約=国際平和」の常識を塗り替える山内氏の歴史学に基づく答えを聞いてみよう。
時間:07:39
収録日:2014/07/30
追加日:2014/10/30
≪全文≫

●「帝国の性格とは何か」のお尋ねに答えて


 視聴者の皆さんからいろいろなお尋ねをいただいています。本当にありがたいことです。

 今日は、オーストリア=ハンガリー帝国とも呼ばれるハプスブルク帝国とオスマン帝国について、こうした帝国に共通する性格とは何なのかというお尋ねをいただきました。

 なかなか難しい問題ですが、簡単に申しますと、両方とも多民族国家であることです。そして多宗教国家で、宗教もたくさんある。それから多言語国家であるということです。帝国とは、そのように多くの民族、多くの宗教、多くの言語といった多様性を、ある意味で担保している点に特徴があります。

 したがって、帝国といえば悪いことだけを連想しがちですが、必ずしもそうではありません。多くの民族や多くの宗教は、そこに人為的な境界を引き、「国民国家」と呼ばれる体制をとりました。一国家=一民族、一宗教、一言語へと、限りなく近づけようとする試みです。そうしたことが多くの摩擦を生んだことを考えると、帝国の中において、多くの民族、多くの言語、多くの人種、多くの宗教が、人工的な境界線(バウンダリー)をつくられずに共存していたことは、積極的に評価していい面と言えるでしょう。


●多様性が担保された帝国を懐かしむ人々もいる


 ですから、今のウィーンの人々、あるいはハプスブルク朝のもとに住んでいた人たちには、オーストリア=ハンガリー帝国が存在していた頃を、ノスタルジアとして懐かしむ人たちがいます。あるいはオスマン帝国の支配下にあったアラブの人々、クルド人たち、そしてユダヤ人たちでさえ、オスマン帝国が「パクス・オトマニカ(オスマンの平和)」の名において達成した時代、民族対立や宗教対立が起きることなく調和的に共存していたことを、懐かしく評価する人たちもいるのです。

 つまり、帝国には二つの面があります。一つは、皇帝やスルタンによる抑圧という面です。しかし、この抑圧も普通言われるのは随分誇張した見方です。むしろ、皇帝やスルタンたちは、その支配下にある臣民としての諸民族に自由な信仰、自由な言語、そして自由な居住地を任せ、後は放置しておいたり自由に委ねておいたりといった君主たちであったことを忘れてはなりません。そのように、帝国のもとでは多くの人たちが共存していたという側面も、また帝国の一面であります。


●第1次世界大戦後に行われた不自然な領土の分割


 ところが、1914年から1918年の第一次世界大戦によって、ハプスブルク朝もオスマン朝も崩れてしまいます。

 その結果、代わりに生じてきたのは、ヴェルサイユ会議などの講和会議でした。ここに集まったのは、東ヨーロッパや中東を見たこともない、あるいはその地を踏んだこともない人々です。彼らはパリやパリ郊外のヴェルサイユ、あるいはセーヴルといった場所で、地図を見て、ないしは地図も見ないままに、人工的な境界を勝手に引いていったのです。

 このようにして、大変不自然な国境を持つ国家が成立しました。例えばハプスブルク朝オーストリアのもとにつくられた、クロアチア、セルビア、あるいはスロベニア、さらにモンテネグロ。こうしたものが、人工的な組み合わせとして一つの国家を持ったりします。あるいは、ギリシャとトルコの国境の線引きがすこぶる恣意的に行われ、アジアの中にあるトルコの領土にもギリシャ人たちが権利を主張するようになったりするのです。

 第一次世界大戦後の講和条約は、こういう形...
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