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「これからは化学が面白い」ー卒論実験で叔父の言葉を実感

人生はアクシデンタルに決まる(1)化学工学の道に進んだ偶然

小宮山宏
東京大学第28代総長/株式会社三菱総合研究所 理事長/テンミニッツTV座長
情報・テキスト
「人生はアクシデンタルに決まる」と言う小宮山宏氏。化学工学の研究者という仕事は、子どもの頃から決めていた道ではなかったという。そこにはいくつかの偶然が重なっていた。果たしてその偶然とは? 小宮山氏がアクシデンタルなその半生を語るインタビュー。(前編)
時間:17:32
収録日:2014/09/19
追加日:2014/11/06
カテゴリー:
≪全文≫

●若い頃から何になろうと決めるのではなく、どう生きるかを考え出すことが大事


―― 「人生はアクシデンタルに決まる」というところから、今の職業は将来、大体3分の2くらいがなくなってしまい、新しい職業になるというお話でしたね。そんな時代に、自分の息子や娘に「将来こうなってほしい」と言うのは、おかしいのではないかと。

小宮山 それはそうですよ。だって、将来は今、実際に見えないし、どうなるのか分かりませんから。ソニーが今、ベスト400のインデックスから外れましたよね。パナソニックは戻りました。それぐらい変化が激しいのです。ある未来学者の予測によれば、今生まれた人たちの3分の2は、今はない新しい職業に就くことになるだろうということです。

 そうすると、今ある職業の3分の2は、将来はなくなるということになります。そのような激しい変化の時に、自分の息子や娘に、何をやれとか、何になれとか、親が言えると思う人の方が僕には信じられないのです。僕にはとてもそんな自信はありません。

 自分が今まで生きてきたことを振り返ってみても、例えば小学生の時、僕らの頃は、男の子は皆、野球をやっているというような時代でしたから、ラジオで野球の実況中継を聞いて、長嶋茂雄選手に憧れていました。皆、長嶋になりたかったのです。それで、一生懸命に野球をやるけれども、僕の場合は小学校3、4年ですかね、同級生に水野くんという人がいて、彼の方が野球が上手なのが明らかに分かるのです。そう思ったら、やはり分かりますよね。自分が将来、野球選手になりたいと言ってもなれないということを感じました。

 ある会で小泉進次郎さんが同じようなことを言っていました。彼の場合はそれが分かるのが遅くて、高校まで甲子園に行こうと思って野球をやっていたそうで、強い高校だったようです。彼は僕よりもずっと才能があっただろうけれど、同じ神奈川県で、松坂大輔選手が違う高校にいたそうで、「松坂選手が軽く投げていても、僕よりもはるかに球が速いし、伸びがあった」と言っていました。その時に、野球では無理だと思ったそうです。

 ですから、高校で感じるか、中学で感じるか、野球なのか、歌手なのか、ピアニストなのか、それは分かりませんけれども、小学校の時に将来何になりたいと言っても、やはりなれないということがどこかで分かっていく。それで、だんだんと自分が人生をどう生きるかということを考え出すということではないですかね。


●夢がないと言われたが、一生懸命何になろうか考えていた


小宮山 僕はあまり若い頃から「将来何になろう」と決められていた方ではないですね。

―― 先生のご両親は、結構自由に育てられた。

小宮山 僕が子どもの頃は、親も必死だったのではないですかね。

―― 生きていくのに。

小宮山 生きていくのに。ただ、叔父がもう一人いて、勤務医だったので、母は僕を医者にしたいという思いが少しあったのかもしれません。僕は小学校6年生の時に、自分は将来何になりたいのかを作文に書けと言われました。はっきり言って、野球の夢が壊れていましたから、なりたいものなどなかったのです。でも、「野口英世になりたい」と書いたのです。あんなものは嘘です。自分でも書いていて「違うな」と思ったけれど、書かないといけなかったし、書くことを強制されていましたからね。

 そういう意味で、作文には「野口英世になる」と書いたけれども、中学の時にカエルの解剖をやりましたが、あれは嫌な臭いでしたね。僕は子どもの頃からカエルなどでいろいろやっていたけれど、皮を剥いでエビガニを釣ると、本当によく釣れるのです。でも、エーテルの臭いや解剖の気持ち悪さもあって、医者になるなんて考えられなかったのです。ですから、それもやめたという感じで高校生になり、大学に入ることになりますが、あの頃は都立の進学校でしたからね。

―― 先生は戸山高校で。

小宮山 都立戸山高校で、皆、東大を目指していました。300人か400人の中で、100人ぐらい東大に入りましたからね、僕も目指していました。

 あの頃は単純で、こんなことを言うと文系に行った人に怒られるかもしれないけれど、そのときの時代のムードからか、数学ができる人は東大の理科一類に行くものだと決まっていたのです。戦前ならば多分、男の子は陸軍大将を目指したのではないでしょうか。僕の時代には、もちろん非常に早熟で文学青年のような人もいましたが、僕はマジョリティーの方で、なんとなく時代の流れで理一を目指して理一に行ったのです。ですから、その頃、自分は大学を出たら大企業に行くと思っていましたね。

 今でも覚えていますが、大学の頃、若い先生が「お前たちには夢がない」と言うのです。あの頃でもそう言われていたのですね。それで、「僕...
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