10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
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会津藩藩祖、保科正之の知られざる功績

知足の政治家・保科正之に学ぶ(2)転換期の名舵取り役

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
保科正之
「ならぬことはならぬものです」。2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』でおなじみ、会津藩「什の掟」である。その会津藩の藩祖・保科正之を「現代人が学ぶべき政治家」と推すのが山内昌之氏だ。将軍お膝元の江戸にも、国元の会津にも平和の時代を築いた保科正之の功績とは? (後編)
時間:15:48
収録日:2014/09/03
追加日:2014/11/23
保科正之
「ならぬことはならぬものです」。2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』でおなじみ、会津藩「什の掟」である。その会津藩の藩祖・保科正之を「現代人が学ぶべき政治家」と推すのが山内昌之氏だ。将軍お膝元の江戸にも、国元の会津にも平和の時代を築いた保科正之の功績とは? (後編)
時間:15:48
収録日:2014/09/03
追加日:2014/11/23
≪全文≫

●平和な時代をリードする保科正之の「民政」感覚


 保科正之が明暦の大火で示した感覚は、なぜ生まれたのでしょうか。彼は3代将軍・家光から4代将軍・家綱の時代にかけて生き、政治の責任を担っていました。この時代は、ちょうど徳川が武断政治から文治政治へ、軍事中心の古い体制から平時の体制へと大きく切り替わる時期でした。すなわち平和の時代において、「民政」を重視しなければいけない時代に入ったといえます。

しかし、戦国の名残をとどめた老中や重臣たちもまだ周囲にはいたのです。例えば保科正之は、玉川上水をつくった最大の功績者の一人です。ところが、彼が「玉川上水をつくる」と言い出した時、彦根藩の藩主で大老を務めていた井伊直孝は、「そういうものをつくると、幕府に反旗を翻した大名や敵が、上水を通ってすぐにこの江戸に入り込むことになりかねず、危険だ」と反対しました。これは、すこぶる戦国的な発想です。

 平和の時代においてまず問題になるのは、江戸の1万軒に安心できる水をどのように供給するかです。江戸は人口過剰な町ですから、現在の東京の基礎になる江戸の繁栄を支えていくためには、健全な水の供給が重要でした。上水道と下水道の管理をどうするかを正之は考えたのですが、「それでは、戦(いくさ)の際に不利になる」と発想する方が、当時としては普通でした。しかし、正之はそうではなくて、「民政」というものを意識しないと駄目だと考えます。


●江戸城に天守閣がない理由


 前回、明暦の大火の際に天守閣が焼けて燃え尽きたと言いましたが、これを再建しなければいけないという議が起きた時、正之は「こうしたものに費やすお金をもって、他の復興計画に充当するべきだ」と反対します。天守閣をつくっても、もはや戦時においてすら、そうしたものが機能するかどうか疑わしいと考えたのでしょう。このような考えは、実際に近世から近代にかけての軍事的な哲学を先取りしていたものです。

 天守閣には象徴的な意味はあっても、そこを使って敵に対して攻撃する意味はありません。むしろ守る側に立ったときに、天守閣は大砲等々の発射を受け、火力によって落とされることになり、非常に具合が悪いのです。

 これは非常に皮肉なことですが、幕末の戊辰戦争の時に、会津若松城(鶴ヶ城)における天守閣の象徴的な焼亡により、白虎隊の若者たちは「天守閣が焼け落ちた」と見ました。天守閣が落ちたということは、「城が落ちた」ことの象徴ということで、白虎隊が絶望して自決するという悲劇につながっていきます。そのようなエピソードをお考えになられてもよろしいかと思います。

 いずれにしても、幕末につくられた五稜郭などの近代的な洋式築城には、天守閣などはもちろんありません。お台場に設けられた海洋砲台においても、そうした高層建築はつくられません。そうしたことを見通していくかのように、この財政難の時代には、明らかに何かを削らなければいけなかったのです。


●「足るを知る」正之の人柄と見識


 さて、正之の素晴らしいのは、兄の家光に対してもそうでしたが、自分の甥であった4代将軍の家綱にも、決して間柄ゆえに「馴れる」ことをしなかった点です。将軍という地位に対しても、その地位に就いている家綱に対しても、最後まで尊敬心を失うことがなかったのです。

 このような正之を表すのに一番ふさわしい言葉を選ぶとすれば、「足るを知る」ではないでしょうか。「足るを知る」人を「知足の人」とも言います。正之は、自分...
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