●「歴史とは何か」を考える枠組みと問題への関心
前回に引き続きまして、今日は、拙著『歴史とは何か』(PHP文庫、2014年)について、枠組みや問題への私の関心を考えてみたいと思います。
こうした問題への関心、あるいは枠組みへの興味というのは、私の職業としての専門であるイスラムや中東だけではなく、子どもの頃から私たちがなじんでいた中国の古典や、あるいは、その後、高校生、大学生を通して知識として持つようになる欧米の世界を素材としながら、皆さんと一緒に歴史を理解する手掛かりや方法を得ようとし、考えようとする点に、この書物『歴史とは何か』の意味があるのです。もちろん日本人である私が、日本史、日本人の著者の本に接するのは当然のことです。
私は職業的な専門家としての歴史学者、歴史家ですから、比較史にはもちろん関心がありますが、本書で比較史のようなことを大胆にも試みようとしているわけではありません。方法としては、確かに一種の比較に頼った面もありますが、「比較とは何ぞや」という問題について、もともと古代ローマ史の専門家でありながら、近現代の歴史についても発言をしている、大変素晴らしい才能を持った、私も敬愛するフランスの歴史家であるポール・ヴェーヌは、このようなことを言っています。
「発見を目的として、異なる国とか異なる時代とかから事実を借用してきて比較すること」、これが比較だと言っています。
ですから、こうしたポール・ヴェーヌの「異なる国とか異なる時代から事実を借用してきて比較する」という、この作業が比較だとすれば、私もこの書物で採った方法は比較だということが言えるということなのです。
●格別な専門を持つことが研究の正統
もっとも研究というものは、正統的な筋から言えば、何か一つの格別な専門を持つことが絶対的な条件です。ヴェーヌにしても、古代ローマ史が出発点であり、専門です。私もこの書物を書くにあたっては、自分としてのポール・ヴェーヌの言う個別研究、専門研究を踏まえてきたつもりです。
一番最近では、以前に紹介したこともある『中東国際関係史研究――トルコ革命とソビエト・ロシア 1918-1923』(岩波書店、2013年)として公刊した、キャーズィム・カラベキル・パシャというトルコ革命の将軍を軸にして中東の国際関係史を研究したことなどがそうです。
それから、この本(『納得しなかった男――エンヴェル・パシャ 中東から中央アジアへ』岩波書店、1999年)のように、キャーズィム・カラベキル・パシャやムスタファ・ケマル・パシャと同時代のトルコの軍人政治家、エンヴェル・パシャについての伝記的研究も、個別研究として進めてきました。
さらにその前には、この『史料 スルタンガリエフの夢と現実』(1998年、東京大学出版会)、そのもとになった『スルタンガリエフの夢――イスラム世界とロシア革命』(1986年、東京大学出版会)といった書物も出してきました。
こうした私の国際関係史研究は、いずれもそれ自体がある種の比較史的な意味合いを持っていますが、そうした個別的研究というものは、実は比較史につながる性格を持っているということでもあります。
●歴史とは上手に「思い出す」こと
今日ご紹介している、この『歴史とは何か』という本は、歴史学が学問として成り立つ大きな前提として、ある事件が起きた過去と、私たちが同時代に生きていて記憶や知識というものが非常に鮮明であり、生き生きとしている現在との間に、時間の流れだけではなく、時間とともに何らかの因果関係、原因と結果の関係や想像上の経験が成立する特性があるということを、私は重視したいのです。
また、歴史家が見つけた事実は、もちろん確かに全て過去に存在しましたが、それを理解するためには、何らかの意味での正常な、そして、バランス感覚のとれた想像力を必要とします。
歴史家ではなくても、この点を正しく捉えている人がいました。それは小林秀雄です。小林秀雄は、歴史とは上手に「思い出す」ことだと語ったことがあります。これは、実に冴えた、いい表現だと私は思います。
つまり、歴史というものは、過去に起きたことについて記述し、記録するのですが、記述や記録するということは、まさに思い出すことだというわけです。これは文学者でなければ思い浮かばない表現だと思います。
この点でいえば、歴史家と文学者との間には似た性格があるという、私が前回で申したような指摘が、まさに当たっているのです。実際に小林は、歴史を知ることとは、「古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞こえたりするような、想像上の経験をいう」と述べました。
しかし、作家と歴史家との間には、大きな違いもあります。これからこういうことを何回か、く...