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村田清風が変えた長州藩の安全保障の意識

幕末長州~松下村塾と革命の志士たち(02)村田清風と長州藩の国防意識

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
下関から見える日本海
黒船来航からさかのぼることおよそ20年、長州藩では村田清風による藩政改革が行われていた。改革は、外国からの脅威に対し国防を強化するものだった。なぜ長州藩にはその必要があったのか。幕末の長州藩に大きな影響を与えたと言われる村田清風の国防論に迫る。シリーズ講話第2話目。
時間:05:46
収録日:2014/12/15
追加日:2015/01/09
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≪全文≫

●幕末の長州藩を考える際に一番重要なポイントは地理的なロケーション


 皆さん、こんにちは。今日は、長州藩について少し語ってみたいと思います。

 長州藩は、黒船が来航する20年ほど前の天保年間に藩政改革を行います。このことによって、海防、すなわち、外国からの脅威に対する国防を強化するのです。この点からすると、長州藩は、国防意識、あるいは、安全保障に関する関心が高かったと思われますが、果たして、実際はどうだったのでしょうか。

 幕末の長州藩を考える際に一番重要なポイントは、長州と周防、すなわち、今の山口県が置かれていた地理的なロケーション(場所)で、言わば地政学とも言うべきものです。

 地図をご覧になればすぐにお分かりになるように、長州藩は朝鮮半島を介して、中国をはじめとするアジア大陸に最も近い日本の藩、すなわち、日本の事実上の小国の一つであり、大陸であれ海であれ、おのずと外に対する意識は高いものがありました。


●村田清風の国防論と長州藩の海防への強い意識


 外に対する意識とはどのようなことかと言うと、この海の彼方からもし敵が攻めてきたらどうするのか、すなわち、長州藩の安全保障に対して脅威が現れたらどうするのかという問題意識です。

 そういう問題意識を持って自分たちの藩を改革しなければならないと考えたのが、村田清風でした。長州藩の藩政改革は、アヘン戦争と同時期の天保11(1840)年に始まりますから、まさに村田清風は、アヘン戦争のインパクト、あるいは、アヘン戦争が奏でてくる脅威、すなわち、当時の中国を取り巻く国際環境を、十分に意識していたということでしょう。

 村田清風は、藩の重役に挙げられた時、藩主の毛利敬親に対して、「いつ外国船が攻めてくるか分かりません。いつ攻めてきてもおかしくないのです。そういう状況において大事なことは、軍事技術の習得が第一番目です。そのためには、外国に対する国の守りを固める必要があります」と進言します。

 毛利敬親は、この進言を受け入れまして、対外防備を主眼とする大規模な操練(軍事訓練)を行います。すなわち、藩全体で海防に取り組む強い意識を持って、藩士たちの士気を高めようとしたのです。このことが、後に吉田松陰などを生む時代の背景になっていきます。


●村田清風から国防論を引き継いだ吉田松陰


 村田清風は、黒船が来航してから2年後の安政2(1855)年に死去します。しかし、彼の安全保障や国防に対する意識は受け継がれました。その代表的人物こそ、吉田松陰でした。

 吉田松陰は、他の長州藩士と同じように、日本海を強く意識し、日本海に浮かぶ島、あるいは、無人島である竹島などにも関心を持ちます。実は今の竹島は、当時「松島」と呼ばれていました。その時、日本人が竹島と呼んでいたのは、鬱陵島(うつりょうとう)でした。吉田松陰は「鬱陵島には、人が住んでいない」と主張しましたので、そうであったのでしょう。その鬱陵島を竹島と呼び、鬱陵島の開発に対しても強い関心を向けたのは、まさに安全保障の意識の表れに他ならないのです。


●村田清風の改革が幕末の長州藩に大きな影響を及ぼした


 ところで、毛利家が関ケ原で敗れたことはよく知られています。120万石から37万石へと減封された藩が、何ゆえに幕末に倒幕の原動力となる実力を蓄えられたのでしょうか。

 それは、村田清風の改革と大きなつながりがあります。そこで、次の機会には、天保の改革後の長州藩について少し眺めてみたいと思います。
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