●実は財政的基盤が盤石だった長州藩
皆さん、こんにちは。
先週、少し触れましたように、関ケ原の戦いで長州藩毛利家は大きな領土を失いました。徳川家康によって禄高が120万石から37万石に減封されたのです。
ところが、天保の改革後、この藩が実質的に100万石、すなわち、加賀の前田家に匹敵する大藩になっていたことはあまり知られていません。それはなぜか。このことは、私たちが明治維新を理解するときに大事な点です。
政治革命を行うにしろ、安全保障を充実するにしろ、何をするにしても、先立つものはイデオロギーや思想ではありません。お金です。すなわち、財政的基盤がしっかりしていないと駄目なのです。その点、長州藩はまさに盤石でした。
●防長三白によって有事に備えることができた
「防長三白(ぼうちょうさんぱく)」という言葉があります。これは、長門と周防、長州と防州、今の山口県が幕末において、特に栄えた名産3点「米、紙、塩」のことです。これらは、いずれも白く輝き、そして、光るように作られた大変良質な名品であったため、そう表現されました。
長州藩は、そもそも18世紀中頃からこうした改革に努めてきました。安全保障は、村田清風による19世紀の改革でしたが、すでに18世紀、いわば一種の産業革命ともいえる改革を試みました。
18世紀中期の藩主であった毛利重就(もうりしげたか)の時代に、「撫育方(ぶいくかた)」という一種の開発局(防長開発局)を設け、防長三白の生産力向上に努める役職を置いたのです。しかも撫育方の収入は、現在で言う一般会計ではなくて、特別会計でした。すなわち、藩の通常の予算、支出、あるいは、収入ということで財政処理するのではなくて、特別会計として藩の手元金として、使わずに手元に置いておきました。まさにいざというときに使うために、蓄積されたのです。
財政赤字を垂れ流していくような現代の世界において、日本もそうした非常に不幸な時代にあるのですが、財政で黒字になった部分に関して、きちんと蓄積し、使わないというのは、なかなか勇気の要ることです。これが後々効いてくるのです。
これによって、長州藩の財政は、余裕を持つことになり、重就は、散財も贅沢もせず、有事に備えたということです。
●ヒト、モノ、情報が集まる恵まれた位置にあった
もう一度、長州藩(山口県)の位置を見てみましょう。
長州藩(山口県)の位置は、非常に素晴らしいところにあります。このような産業の基礎としての生産だけではなく、実は流通に関しても、大変恵まれた位置にあるのです。
当時、日本の流通の心臓部は大坂の堂島で、米の会所があり、米が全て持ち込まれます。そこで各藩が財政や収入を決済していくのですが、支出、あるいは、収入のバランスを取るのが大坂の蔵屋敷でした。
大坂へ入っていく基本的ルートとしては、紀淡海峡、すなわち、紀伊の国と淡路(和歌山県と淡路島)の間を通るか、日本海側、あるいは、九州からですと必ず馬関海峡、すなわち、下関海峡を通り瀬戸内海を経由して入るかのいずれかでした。そんな中、幕府の中期以降、瀬戸内海を通ることが普通になります。
ですから、長州藩は、瀬戸内海と日本海、ひいては、豊後水道なども入れると、太平洋にもつながっていく、外洋を結ぶ位置にあったのです。したがって、商品流通の面においても、他の藩よりも有利な場所にあったのです。
何よりも人と物が往来するときに、必ず今の下関を通ります。そうすると、そこに寄ったり、泊まったり、人と会ったりするわけですから、人と物の流通だけではなくて、情報も入ってくることになります。人、物、情報が集まる地域や国はおのずと強くなります。長州藩はこのようにして、物品や貨幣を蓄積することになったのです。
さらに、こうしたことを担当したのは、撫育方と並ぶ越荷方(こしにかた)という役所でした。長州藩は、この二つの役所を中心に、富を蓄積していったのです。
●特産物の流通と販売で成功
長州藩には、他にも強みがありました。それは、今でも宇部の炭鉱(宇部炭田)があるように、石炭が採れたことです。石炭を使い、塩田での塩の生産について高度に機能化と大規模化を進めていくことで、防長三白の一つである塩の収入を増していきます。
さらに、サトウキビなどの生産です。サトウキビから、当時まさに白そのものであった砂糖を作っていきます。
それから、櫨(はぜ)の蠟(ろう)です。櫨を植え付けて、そこから良質な蠟を作ります。藤沢周平の作品で有名な、米沢の上杉鷹山の改革ですが、米沢の上杉家は非常に貧しい藩でしたから、何とか特産品を作ろうとして考えたのが、櫨を植えて蝋を作ることでした。この時、模範にしたのが、上方...