●長州と薩摩、越前の違いは幕府と近しい関係にあるかどうか
皆さん、こんにちは。
今日は、前回に引き続きまして、長州藩が強大な力を蓄えるようになった背景とその特徴について、お話ししてみたいと思います。
よく「西南雄藩」という言葉が使われます。幕末の尊王攘夷、あるいは、討幕運動の中心になった長州や薩摩、土佐、肥前(佐賀)といった藩のことです。そして、その薩摩(島津)、あるいは、松平慶永(春嶽)の越前といった雄藩は、幕府に対してもかなり大きな影響力を持っていました。一方、長州藩が幕府に対してはどういった影響力を持っていたのかということは、あまり語られていません。実際に影響力を持っていたかどうかかも含めて、少し考えてみたいと思います。
長州藩と薩摩藩、あるいは、長州藩と越前藩の間には、決定的な違いがあります。それは、簡単に申し上げますと、幕府と縁戚関係にあるかどうかで、薩摩藩はその関係がありました。また、幕府の親藩、御家門、つまり、幕府の家族、あるいは、それに準じる非常に近しい一族であるかどうかで、越前藩はその一族だったのです。
●越前藩は、御三家に次ぐ名門で雄藩という二重の資格を持っていた
松平春嶽を生んだ藩、すなわち、越前藩は、徳川家康の次男である結城秀康まで家系をさかのぼります。結城秀康は、生まれた時から父親に愛されていませんでした。どうも父・家康は「この子は自分の子ではないのではないか」と、秀康を生んだ母(側室)に対して疑いを持っていたようです。そこで、さっさと豊臣秀吉の元に養子として出します。一度、徳川の家を出た人間は跡継ぎになることができません。さらにその後、豊臣秀吉も秀康のことが厄介になったので、今度は関東の名族・結城家に養子に出すのです。
このように養子奉公に出されることで、本来は徳川将軍家を継いでもおかしくなかった人物が、一介の藩士となるという巡り合わせになったのです。
それでも、家康の実子で、しかも次男ですから、家格として言えば、ある意味では将軍・秀忠や、御三家となるかなり年が離れた弟たちよりも非常に高い、という自意識があります。ですから、越前藩は、すこぶる高い家格を許され、松平春嶽も、もともと御三家の一つ、田安家から養子に入ったことから、幕末には、名門の大国で雄藩という二重の資格を持っていたわけです。
●島津薩摩藩は、大奥を通じて幕府政治に対し影響力を及ぼした
島津の家系は、源頼朝までさかのぼると言われています。源頼朝の子を身ごもった女性が、別の家に嫁いで、そこでその子を産みました。しかしながら、島津家に産まれたのは、鎌倉時代の最初に家系の祖になる島津忠久という人物です。島津家の祖は、源頼朝になっていますから、こういうことは、正式な系図には書かれないのです。それが本当かどうか分かりません。いずれにしても、島津家は、名族だったのです。
島津家は、関ヶ原の時に毛利と同じように西軍につくのですが、関ヶ原での島津義久の進退の見事さ、そして、領国に帰った後、徳川幕府に対して和戦両様で対応していく見事な外交力を発揮して、毛利と違って減封処分を受けなかったのです。
また、島津家は、なかなかしたたかな政治力を持っている藩でした。8代藩主・重豪の時に娘の茂姫が11代将軍・家斉に、11代藩主・斉彬のときには養女・篤姫(2008年、NHKの大河ドラマで主人公となった天璋院篤姫)が13代将軍・家定の元に輿入れをすることになります。将軍二人の御台所になるのは、大変なことです。
ですから、島津は、大奥にかなりの力を持っていたのです。大奥は、女性の園、ハーレムということなかれ、です。女性の発言力は非常に強く、女性が使う予算も、実にすごいのです。幕府の屋台骨を揺るがしていく財政赤字の一因は、大奥の女性たちの贅沢さにあったと言えるでしょう。着物、衣服から始まって、食べ物、あるいは、さまざまな娯楽に費やす幕府予算は大変なものだったのです。
ですから、あえて言えば、島津家は、篤姫や茂姫たちを間諜として使い幕府の屋台骨である大奥の実権を握ることにより、贅沢三昧、奢侈の方向に押しやって、幕府の財政赤字を増やしていったわけです。もちろん、このことは、史実としていささかも証明されていません。しかし、客観的に見て、そう疑ってかかってもおかしくないほどよくできた話です。ともかく、薩摩藩は、幕府政治に対して影響力を及ぼしたのです。
●幕府とのパイプのない長州藩は、独自で力を蓄えて、多くの人材を輩出
ところが、長州藩の毛利家には、こうした幕府とのパイプは全くありませんでした。幕府とのつながりがなかったため、義理もなかったのです。その代わりに長州藩は、生産力や流通力、そして、情報力について、強い...