●「松下村塾」を立ち上げたのは吉田松陰の叔父・玉木文之進
皆さん、こんにちは。今日は、いよいよ松下村塾の話に入りたいと思います。
私は二度ほど松下村塾を訪れたことがありますが、いつ行っても素晴らしい所です。質素で何の飾りもない非常に狭い茅屋(ぼうおく)に、若者たちが集まって吉田松陰の教えを聞いたかと思うと、今でも私にはいろいろな思いがよぎります。
ところが、松下村塾をもともと立ち上げたのは、実は吉田松陰ではなく、叔父の玉木文之進でした。このことはあまり知られていません。そこで今回は、松陰の叔父である玉木文之進のことを語りながら、松下村塾の成り立ちについて少し触れてみたいのです。
玉木文之進は、なかなかに面白い魅力ある人物で、もともと吉田松陰の実家である杉家の出身でした。松陰は 「吉田」という姓を名乗り、玉木文之進は「玉木」という姓を名乗っていますが、松陰にとっては血の通った叔父なのです。
●「大組」の重職を解かれた玉木文之進は、自宅で松下村塾を立ち上げる
長州藩には当時、いろいろな武家の集団がありましたので、格式や階級、家格はさまざまでした。
長州藩では、歴代の家老を出していく一番高い家臣のレベルを「寄組」と言いました。その次は、藩のさまざまな政治を実質的に担い、財政などを担当するクラスで、「大組」と呼ばれるものです。ここには、実は桂小五郎や周布政之助らがおり、この大組に連なることによって藩政に関与してくことになるのです。
大組の下にあったのは、「無給通」という面白い名前の家格です。無給通は家格が大変低く、この家格に属していたのが杉家だったのです。文之進は、この杉家から出て、玉木家に入ります。玉木家は大組でした。こうした中、江戸にも詰めた文之進は、大組ということで藩政に関与する役職に就くのです。
長州藩では、江戸家老を「当役」、国家老を「当職」と言います。これは長州藩独特の言い方で面白いですね。玉木文之進は、当役、すなわち、江戸家老に当たる職まで務めたわけですから、大組の中で成功した優秀な人物だと言っていいと思います。
ところが、いつの時代にも権力闘争や、人の恨みつらみ、嫉妬心はあるものです。彼は、天保11(1840)年に、部下の不始末に対し同僚たちの追及を受け、その責任を取るという名目で免職になります。
しかし、何が幸いするかは、歴史にとって分からないものです。彼は、長州藩の萩に帰り、自宅で私塾を開きます。これが、そもそもの松下村塾の由来になるのです。
●幼くして家督を継いだ吉田松陰、文之進を師と仰ぎ学ぶ
松陰もまた、幼少期に兵学者の吉田大助の養子となります。大助が急逝したことで、松陰は非常に幼くして家督を継ぐことになるのです。
吉田家は兵学者の家でしたから、藩主に対して講義をする義務を負っていました。そこで、養父の大助に代わり、松陰に対してさまざまな教育を施し、学問を授けたのは玉木文之進だったのです。文之進は、藩校「明倫館」で山鹿流兵学の代理教授も務めていましたから、松陰に兵学を教えることができたのです。
文之進は、非常に厳格で、品行方正を絵に描いたような男でしたから、時には松陰に拳を上げることもあったと言われています。厳格、品行方正という点では松陰も似ているかもしれませんが、松陰は決して弟子たちに拳を上げることがなかったので、そこは違っていたのでしょう。
いずれにしても、松陰は叔父・文之進の教育に対して謙虚についていきます。そして、自分の師は玉木文之進、すなわち、叔父であると答える奥ゆかしさを、松陰は持ちます。
●玉木文之進は高い教養と意志力をもって吉田松陰と乃木希典を育てた
もう一つ、近代史で重要なのは、玉木文之進の親類に乃木希典がいたことです。乃木将軍は幼い頃、やはり松陰と同じように文之進から学び多くの影響を受けたと語っています。すなわち、乃木も、文之進から厳しいしつけを受けて育つことになったのです。
玉木文之進は、吉田松陰と乃木希典という、幕末と明治の重要な人物を二人育てたわけですから、相当に魅力ある人物で、かつ高い知識と教養を兼ね備え、何よりも意志力を持っていたことがうかがえるわけです。
●松下村塾の弟子が萩の乱の首謀者に-玉木文之進は責任を痛感し自決
しかし、文之進の最期は悲劇的でした。明治9(1876)年に萩の乱が起こります。明治維新が成功し、長州は新政府の中心になりますが、それによって倒幕の原動力であった武士集団が失職してしまいます。さてどうするか。これは幕末のどの藩も抱えた問題で、薩摩藩では最も大規模かつドラマティックなことが起こります。それが 西郷隆盛による西南戦争でしたが、長州では萩の乱でした。
そのリーダーは...