●吉田松陰とその叔父・玉木文之進について
皆さん、こんにちは。これまで吉田松陰とはどういう人物であるのか、あるいは、松陰を生んだ長州の政治的風土とはどういうものなのか、ひいては、長州藩の財政的基盤は何だったのか、こうしたことについて話してきました。
そして、前回は松陰の叔父・玉木文之進が松下村塾の創設者であることに触れ、玉木文之進がいかに多くの人々に影響を与えたか、また、当人も事実上の江戸家老という要職に就き、思想と政治との統一をどのようにして図るのかについて考えた人だということも触れました。
●知識を得たら即実践-吉田松陰が生涯を通して信じた「知行合一」という生き方
松陰は、吉田家に養子として入りましたが、もともと吉田家は兵学の家であり、松陰は山鹿流兵学者としての側面を持っていました。
彼は、長州藩の許可を得ずあえて脱藩をしてまで全国を回って、多くの知識や教養を持つ人々と触れ合おうとしました。全国各地を歩くことは、当時の日本の海岸線を歩くことでした。彼は、日本がいかに海防、国防に備えがないかを知り、愕然としました。
こうした学問と政治、あるいは、知識と行動を不即不離で考えようとする彼のエスプリは、いわば「知行合一」と呼ばれる陽明学の考え方に似ています。すなわち、「認識、即実践」、あることを認識する、あるいは、ある知識を得たならば、それを直ちに行動へ移す「知行合一」とも言うべき考え方にすこぶる近いのです。知識を得ても、そのまま何も活用しなければ、それは死んでしまう。知識を生かすべく直ちに行動を起こさなければならない。これが、吉田松陰の生涯を通して考えた、そして、信じた生き方でした。
●松下村塾で徹底された教え-学問は世のため、人のため、国のためにある
松陰は、「死ぬことや生きることは全く自分の思考範囲の論外に置き、そうしたことを超えて物事の真理を見極めるために前へ前へ進め」と弟子たちに語っています。このように思想家でありながら書斎にこもらないあたりが、まさに吉田松陰の松陰たるゆえんなのです。すごみと言ってもよろしいでしょう。
松下村塾の講義では、必ず当時の世相のさまざまな問題に結び付けて具体的な議論が展開されたと言います。すなわち、学問とは世の中のため、人のため、国のためにあるということが徹底されていたのです。
●松陰の教えは、責任ある行動に裏打ちされた「実践知」
これはなかなかに大事なことで、学問をしていても、それが現実の政治や経済にどのように生かされるのか、こうしたことに関してほとんど無関心な社会科学者たちが多いのが現実です。
現代の日本においても、自分の学問を、そうした世相、世の中の人々や国の動き、あるいは、社会の動向とは無関係に考える傾向があるのです。幕末においてもそうでした。長い間、平和をむさぼり、学問が生きるための糧、手段、職業でしかなくなっていた当時において、松陰は、学んだ知識を世のため、人のため、国のために生かそうとしたのです。
こうした考え方は、いわば「実践知」とも言うべきもので、しかも、それを単なる評論ではなく、責任ある行動に結び付けるべきだと考えた松陰は、弟子たちにうまずたゆまず教え続けたのです。
●松陰の尊皇攘夷論-国を開き、国を強くし、知識を高め外国に対峙する「大攘夷」
では、吉田松陰は日本をどのような方向に導こうとしたのでしょうか。彼は、もちろん尊王攘夷論者であったことは言うまでもありません。天子、天皇を尊び、日本を脅かす外国の勢力である夷狄(いてき)を追い払うべきだというもので、素朴に解釈すれば、彼は尊王攘夷論の最も有能なリーダーであり思想家であったことは間違いありません。
しかし、同時に彼は、当時の幕藩体制や毛利家、つまり、自分の仕えていた家や藩を否定したわけではありません。「僕は毛利の家臣なり」という表現が、彼のある手紙の中に出てきます。幕藩体制をアプリオリ、つまり、頭ごなしに否定するという考え方はありませんでした。
松陰が真に目指したのは、究極的には開国して、欧米の技術を早急に吸収し、当時の世界列強、グローバルパワーの角逐、対立の下において日本が埋没することなく、その独立を堅持できる国につくり替えることでした。
したがって、こうした立場は、攘夷と言っても「大攘夷」と呼ばれるものにつながります。大攘夷とは、国を開き、国を強くし、そして、人々の知識を高めることによって、国の力が充実し初めて外国と対峙できるという考え方と言ってもよろしいでしょう。
●草莽崛起-無名の人々が起ち上がり、世の変革を促していく考え方
そして、幕藩体制の要である幕府の政治が、もしその障害になるのであれば、在野にある民も武士とともに一斉に起...