●弟子の個性を伸ばすことに長けていた教育者・吉田松陰
皆さん、こんにちは。前回は、吉田松陰の思想と実践を重視した「実践知」が最大の特色であると申しました。
松陰の書物の中には手紙を集めたものがあり、岩波文庫で『吉田松陰書簡集』として簡単に読むことができます。私の大好きな本の一つで、愛読書と言ってもよいものです。
こういう書簡集などに残されている手紙から推察すると、松陰は、教育者として実に素晴らしいものがあったことは、申すまでもありません。私たち多少なりとも教育に携わった人間からすれば、誠にうらやましく、そして、尊敬すべき教育者で、私たちが到底かなわないにしても、教師たるものが理想の一人として仰ぎたくなるほどの力量であったことが分かります。
それは何なのか。松陰の教育者としての才能で一番優れていたのは、自分の考え方を押し付けるのではなく、弟子、生徒一人一人の個性をよく観察し、弟子たちの個性や長所を実によく伸ばした点にあろうかと思います。
●松陰はそれぞれの適性に応じて育てようとした
人間には生まれつき頭脳のさえた鋭い人間もいますし、一を聞けば十も分かる賢い子もいます。しかし、一を聞いて、その一とは何かを粘り強く、あるいは、時間をかけて考えるタイプの子もいます。そうした子は、現代の日本風に言うならば、都会の子に見られる非常に鋭い理知的なタイプと違います。地方の出身者などに一部見られるように、ゆっくりと考える、あるいは、一見にすると行動が遅く、物事を考えていくプロセスが慎重すぎるのではないかと思われるほど緩慢に見えるけれども、考え抜かれた実に素晴らしい結論に落ち着くというタイプの若者もいます。
私が接してきた学生たちの中にも、いろいろな子どもたちがいましたが、やはり鋭くすぐに反応できる若者と、何かを語ってもすぐには反応せず、じっくり考える、あるいは、そもそも慎重でゆっくり考える思考回路の子たちもいるのです。
こうした若者をそれぞれの適性に応じて育てていくことは、いつの時代にも教育にとって必要なことです。しかし、それが私たちにはなかなかできないのです。その点で言えば、松陰は、まさに教育者として、鋭い子も鈍牛のような子も、あるいは、理知的な子もやや内向的な子も、さまざまな形で育てようとしました。
●教科書は作らない、ルールで縛らない、自らのやる気に任せる指導方針
ですから、テキストや教科書を作り、それを弟子たちに読ませて自分の教えを説こうという考え方が松陰にはないのです。テキストは自分の語るところであり、聞いた弟子たちがそれぞれ考える。ですから、共に学ぼうという姿勢なのです。
したがって、こうした人たちに対しては、塾則や厳しいルールも必要ないということです。私たちは、ともすれば、規則やルールに縛られ、あるいは、学生を縛ろうとします。また、自分の書いた本や自分の語る言説を学生たちに押し付けようとする人もいます。
そうではなくて、塾生個人の意欲、やる気に任せる。それは外から与えられるものではなく、自分の中からおのずと出てくるものだと強調する指導方針でした。
●松下村塾の特徴-1.身分、出身を問わず誰もが学べる
こうした点で言うと、当時の長州藩の上流、中流の藩士たちの子弟を育てていく藩校の「明倫館」との違いは歴然としています。明倫館は武士身分の者しか入れませんでした。したがって、当時は百姓の出身であり、桂小五郎雇いという形でやがて士分格に準じる立場になっていく伊藤利助こと博文、あるいは、中間の出身だったとされる山縣狂介こと有朋のような俊才たちは明倫館には入れなかったのです。彼らに限らず農民や町人たちは、申すまでもなく明倫館で学ぶことはあり得なかったのです。
しかしながら、松下村塾は身分や出身を問わずに、誰もがそこに入ることができました。そして、上士や中士(上流、あるいは、中流の武士身分の出身者)と肩を並べて、足軽や中間の子、あるいは、農民や町人の出身者も学ぶことができたのです。
これはまさに、教育がもととするところの参加、そして、競争への平等です。生まれつき人間が出身階級で決まってしまうならば、教育はあり得ません。いかなる親の職業、あるいは、親の収入、親の出身に関係なく、優れた才能を育てていくのが教育です。こういう点で、松陰、松下村塾は、教育とは何かを教えてくれるのです。
先ほど申したように、山縣狂介こと有朋、あるいは、伊藤利助(俊輔) こと博文は明倫館で学べなかったにもかかわらず、松下村塾で多くを習得することになったのです。
●松下村塾の特徴-2.地元出身者が圧倒的に多い
松下村塾のもう一つの特徴は、地元出身者の占める割合がずばぬけていたことです。例えば、当時...