●馬関戦争で惨敗し、列強の脅威を知る
いわゆる馬関戦争についてお話ししてみたいと思います。
馬関は、今の下関の古名です。長州藩がこの馬関を拠点にして攘夷を本格的に決行したことは、すでにお話しする機会がありました。それに対して、4カ国の連合艦隊が報復として来襲したのです。
イギリス留学から急きょ帰国した井上聞多と伊藤俊輔、後の井上馨と伊藤博文たちは、そのような無謀な軍事対決を回避し、連合艦隊との戦いを止めるため、藩論の変更を求めましたが、藩内を説得できずに戦端が開かれました。もちろん、長州藩が、最先端の武装をしていた米欧の軍隊にかなうはずもありませんでした。そこで、長州藩は惨敗し、改めて列強の脅威を知ることになったのです。
●英国を翻弄し外交交渉を成功させた高杉晋作
なお、この時に台頭する人物が、宍戸刑馬という偽名を名乗った高杉晋作です。高杉は、イギリス等との休戦交渉に当たりました。日本語に非常に堪能だったアーネスト・サトウは、武鑑(大名等々の重臣の名前や消息などについて記した紳士録)のどこを見ても、宍戸刑馬という人物はないということで、これが偽の人間であることを見抜いたのは、有名なエピソードです。
いずれにしても、高杉は、もっともらしい恰好をして、烏帽子などをかぶって、自分が家老・宍戸家の世嫡(正式な跡取り)であると名乗って登場したわけです。宍戸家は、長州藩の名家、名門の一つでしたから、宍戸を名乗っておけば、イギリスの目、サトウの目もくらませると思ったのでしょう。
それは見破られたのですが、高杉は、いろいろなことで英国を翻弄(ほんろう)します。まず、外交交渉の時に、そもそも大日本は神国であるということを祝詞のようにして長々と言い始めたものですから、その通訳をしているだけで大変だったというエピソードが伝えられています。
また、仮に長州藩と領土を割譲する講和条約を結ぶと、イギリスは長州を一つの国として認めたことになる。そうすると、他の300に近い諸大名とも、一国一国、これから開国やさまざまな要求について交渉して講和条約、あるいは、通商航海条約を結ぶつもりかと、こういうようなことを言いました。これは、ある意味で、非常に正当な点でもあったのですね。
重要なのは、ここです。イギリスは、彦島の割譲を要求したのです。今は陸とつながってしまいましたけれども、昔は馬関海峡を画するように浮かんでいた島です。この彦島の割譲を要求したのですが、それを拒否するために、高杉はいろいろな策を弄したということです。もし、彦島が割譲されていれば、そこは、あたかも香港のようになっていた可能性があります。すなわち、馬関海峡は、外洋と瀬戸内という日本の通運の最も重要な要路にあり、長州と九州、四国をつなぎ、九州からは外にもつながっていく所に位置する彦島を取られてしまうと、日本全体の運輸、あるいは、物資の流通などを抑えられることになるのです。
そこで、高杉は、国際法に詳しい知識があったかどうかは疑問ですが、センス、感覚として実に鋭いところを突きながら、彦島の割譲を拒否したということになります。
●リーダーシップは俗論党から高杉らの正義党へ
もっとも、禁門の変に続いて、馬関戦争においても大敗を喫した長州藩が、攘夷を放棄したかといえば、必ずしもそうではありません。確かに、一時的に幕府との融和を目指す上士出身のグループで、通常、俗論党と呼ばれた保守派のリーダー・椋梨藤太が政権を握りましたが、俗論党は上士階級に限られたため、勢力として広がりを欠きました。むしろ、休戦交渉で鮮やかな手腕を示し、上士という身分の出身者でありながら、高杉晋作ら、後に正義党と呼ばれることになるグループへの待望論が巻き起こっていったわけです。
つまり、幕府が、外国と競うかのように、さらに長州藩を懲らしめるため戦を起こそうとする中で、それを守るにふさわしい長州藩のリーダーは誰かといいますと、その一人が高杉晋作ということになるのです。やがて、長州藩の藩論は、俗論党のリーダーシップから正義党の新しいリーダーシップへと転回を遂げていきます。
いずれにしましても、多くの若いエリートを擁していた長州藩の中でも、久坂玄瑞が才能や頭が切れる人物として「才の久坂」といわれたのに対して、高杉は「識の高杉」といわれました。識とは見識のことで、物事を全体として捉えて大局的に見通す能力、あるいは、独創性という点において、高杉は評価されたわけです。
●高杉晋作は上士ながら政治基盤は幅広かった
高杉は、幕末にまさに八面六臂の活躍を遂げます。彼は革命家としてのイメージが強いのですが、実際、もともとは大組という毛利家代々の上士階級に属する二百石取りの名家に生まれた人物...