10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
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西郷隆盛や大久保利通と相いれない木戸孝允のリアリズム

幕末長州~松下村塾と革命の志士たち(14)薩長同盟

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
木戸孝允
wikimedia Commons
薩長同盟を締結させた長州藩は、その後、大政奉還を経て、王政復古の大号令とともに明治政府の成立に尽力し、明治維新を成し遂げていく。幕末の変革期において、まさにその中心にいた長州藩だが、歴史的に見たとき、どのような役割を担ったと考えればいいのだろう。歴史学者・山内昌之氏が解説する。(シリーズ講話第14話目)
時間:11:15
収録日:2015/01/14
追加日:2015/04/05
≪全文≫

●新しい時代をつくるため、薩長同盟を締結


 皆さん、こんにちは。

 長州藩と薩摩藩が手を組んだことは、幕末の政治を大きく展開させ、幕府の時代から新しい時代、すなわち、明治維新という大きなうねりをつくり出す原動力となりました。

 そもそも、当時の動員力、あるいは、兵士を抱える力は、石高で決まります。ですから、長州藩を石高だけで見た場合でも、軍事力が想像されますし、幕府に対してどうやってみても長州一藩では戦うことができなかったのです。薩摩藩と長州藩だけでも厳しいものがありましたから、後に土佐藩や肥前の佐賀藩なども味方に入れて、幕府に対して戦うという構造ができてくるのです。すなわち、今風にいいますと、コアリション(連合)をつくり提携工作をしないと、幕府に対抗できなかったのです。

 したがって、坂本龍馬は、このことを丹念に、そして、粘り強く説いて、長州と薩摩がコアリションを組んで幕府に当たることが、新しい時代をつくっていく条件だとして、薩長同盟を締結させます。

 慶応2(1866)年の6月に第2次長州征伐(第2次長州戦争)、最近は幕長戦争と呼ばれる戦いで、薩摩藩は、会津藩や桑名藩など幕府の雄藩という立場から離れて、中立から、さらに長州藩に対して好意的な立場へと、大きくその立場を旋回させました。

 薩長同盟が締結された背景の一つは、第1次長州征伐(長州戦争)の頃から、西郷隆盛が長州藩に同情的になったという面が挙げられます。西郷は、薩長同盟を結んだ後、イギリスの外交官アーネスト・サトウに対して、「長州問題を解決できないほど幕府は弱体化している」と語ります。そうした幕府に外交を委ねるのは、国にとって多くの弊害がある。したがって、幕府に対して長州と薩摩が手を組んで、新しい政府、新しい国をつくっていくということが、これからの世の中には必要である。この考え方が、坂本龍馬、そして、西郷隆盛に共通するものとして浮かび上がってきたということかと思われます。


●最後に勝ち馬に乗ったのは土佐藩と肥前藩


 こうした明治維新への流れの中で、長州藩が果たした役割とは一体何だったのか。慶応3(1867)年に大政奉還がなされます。そして、王政復古が宣言され、明治新政権が成立します。翌年には戊辰戦争が起こります。すなわち、東北諸藩や越後の幕府寄りの藩との戦争が行われ、その結果として、薩長を中心とした西国諸藩の軍隊が勝つことによって、日本は、東北を従えて明治維新を成立させることになるのです。

 その運動の中心に長州藩がいたことは、紛うかたなき事実でありますが、長州藩は、薩摩藩のように外交やマキャベリズム、権謀術数(権謀術策)の限りを尽くして、この回天、つまり、世の中を変えていく事業に関与したわけではありません。また、最後の最後の土壇場で幕府を見捨てて、そして、勝ち馬に乗っていった藩とも違います。

 現代史の外交では、イタリアは、常に最後に味方を裏切って勝者の側に乗り換えるということで、第1次大戦時のロイド・ジョージ、現代で言いますとマーガレット・サッチャーが非常にイタリアを嫌い抜いたことはよく知られています。そのように、これまでの味方を平然と捨てて勝ち馬に乗るというのは、政治の世界ではありがちなことです。現代のイタリアだけを批判しても仕方がなく、歴史における事実はたくさんあるわけですが、例えば、徳川を見捨てた最大の藩は、やはり土佐藩でしょう。

 鳥羽伏見の戦いの時、この戦に加...
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