●就任1年目から「日本一」を目指していた
── 4年でヤマハ発動機ジュビロ(ヤマハ)を日本一に持って来られました。早稲田大学の時と比べて、うんと難しかったと思われます。何より監督を引き受けられた時は、入替戦に当たっていましたよね。
清宮 そうでしたね。
── そこからどうやって4年で1位にすることができたのか。清宮さんのことですから、おそらく最初から「日本一」とは言われていたと思いますが。
清宮 はい。僕としては、4年かかるとは全く思っておらず、1年目から真面目に「日本一」と言っていました。1年目のシーズンは、80分の試合で「20分間ならば日本一になれるチーム」にはなりました。でも、結果としては8位までしか成長できなかったわけです。
── そこから「何をし、どうやって勝つか」という、清宮さんのすごい戦略づくりが始まるわけですね。4年前のヤマハというチームを見ると、必ずしも素材的にスター選手が集まったチームではありませんでした。前年に会社側がラグビーの強化を縮小した影響もあったのでしょうね。
清宮 そうですね。レギュラー選手が10人弱、他チームに移籍しました。
●苦闘の1年を、チームの財産として生かす
── 一見、チームがガタガタになってしまった状態ですよね。そんな中、選手の気持ちをつかみ上げ、「日本一にするぞ」とおっしゃる。そのあたりがすごいところだと思います。
清宮 ただ、チームには財産がありました。厳しい中で残った人間たちだけで1年間耐え忍んだことです。この財産はすごく大きかったと思うのです。残った人間で入替戦を戦い、ギリギリではあったけれども2点差で逃げ切りました。そんな苦しいシーズンを1年耐えたのです。僕は、そのことを翌年からうまく利用しようと思ったのです。
つまり、あまりにも苦しい1年だったため、1勝しただけでまるで優勝したように喜ぶのです。逆もそうで、普通のチームは負けても結構淡々としていますが、うちのチームは負けるとシーズンが終わってしまったかのように落ち込むのです。その年、そんなチームはヤマハだけでした。「これは生かせるな」と、外から見ていて思いました。ですから、これを生かすためにはどうするかというと、同じメンバーのままで結果を変えることだと思ったのです。
会社から、コーチングスタッフや選手構想はどうするのかと聞かれましたので、「コーチは残留。選手もカットなし。基本的に全員を残してほしい。他チームから引き抜きはしない」と伝えました。実際には一部のコーチを連れていったのですが、この方針が、自分が就任する1年前からあった財産を生かす戦略の一つだったのです。
●鍛えればなんとかなるという自信があった
── すごいことですね。
清宮 ただし、それは、はたから見ても戦力になるパーツがそこにあったからなのです。例えば、スクラムは弱いけれども体は大きいという選手が居たのです。
── 清宮さんから見れば、鍛えればなんとかなると。
清宮 そうですね。もちろん鍛えればなんとかなるという自信があったから、会社にそう伝えたのです。要するに、3番・4番・5番のクリーンナップを打てる選手は居るので、つなぎの選手たちをきっちり育てれば、ある程度のチームになるという確信です。そのため、クリーンナップをよそから入れることはやめよう、と。それは結構受け入れてもらいやすかったのではないかと思うのです。
── チームのメンバーに受け入れられやすかった、と。
清宮 会社にもそうですし、応援してくれている人にも、もちろんチームのメンバーにもそうでした。だから、僕がヤマハに行った最初の時から、選手たちは本当に真剣に僕の話を聞いてくれました。何か違うことが起こるような期待感は、持ってくれたのではないかと思います。
●同じメンバーだと喜びが倍になる
── お話を聞いて、ハウステンボスの澤田秀雄社長の話を思い出しました。18年間、誰がやっても赤字続きでボロボロになっていた会社を、ほぼ同じメンバーで立て直しました。総料理長を切ったぐらいで、残りは同じメンバーのままで勝てるようにしたのです。今の清宮さんのヤマハの話と、とても近い気がしました。
清宮 そうなのかもしれませんね。同じメンバーだと喜びが倍になるではないですか。倍になるそのエネルギーというものは、何事にも代えられないと思います。
── 1年目は11位から8位に上がりましたが、中にいた人たちは、勝ったら優勝したように喜び、負けたらこれで終わりだというぐらいに悲しむということで、充実度がとても高かった人たちだったのですね。
清宮 はい。そういうメンバーが、前年とは違うラグビーをやり出しました。順位は8位でしたが、失点数は2位で、守りがとてもよくなりました。その上、得...