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アルメニア人追悼式典の翌日にガリポリで追悼行事を開催

戦後70年談話(7)二つの追悼式典と歴史認識問題

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/明治大学研究・知財戦略機構国際総合研究所特任教授
情報・テキスト
雷撃により傾く戦艦マジェスティック(ガリポリの戦い)
第1次大戦中の1915年に発生したアルメニア人大虐殺から100年目に当たる2015年4月24日に追悼式典が行われたが、その翌日、ガリポリ半島でもう一つの大規模な追悼行事が開催された。現在、トルコ政府はアルメニアとの和解に前向きだが、両国の間の歴史認識問題において、この二つの追悼式典は何を意味しているのか。歴史学者・山内昌之氏による戦後70年談話を考えるシリーズ第7回。
時間:06:34
収録日:2015/05/18
追加日:2015/06/25
ジャンル:
≪全文≫

●トルコはガリポリ半島で追悼行事を催した


 皆さん、こんにちは。トルコとアルメニアの問題について、日韓、日中の関係との比較などでも議論してきました。

 さて、現在のトルコ政府がアルメニアとの和解に前向きであることは、すでに述べた通りです。トルコ政府はなかなかにしたたかでありまして、第一次世界大戦中の1915年にアルメニアでいわゆる大虐殺という悲劇が生じた日からちょうど100年を回顧する本年(2015年)4月24日にぶつけるような形で、その翌日の25日に自らの積極的な歴史認識に関わる儀式が行われたことは、日本ではほとんど知られていません。

 第一次世界大戦中、当時のオスマン帝国の軍隊(トルコ軍)はガリポリ半島において、敵前上陸作戦を敢行した英連邦軍であるイギリス本国とANZAC、すなわち、オーストラリア、ニュージーランドの軍隊と戦って、それを退けました。トルコ側の将軍指揮官は、ムスタファ・ケマル・パシャであったわけですが、この戦いは今日に至るまで、関係者の間で、騎士道精神によるフェアで潔い最後の戦争として記憶されています。

 そうした戦を追悼する大規模な行事を、ガリポリ半島で催したわけであります。そこには、他ならぬイギリスのチャールズ皇太子、あるいは、オーストラリアのトニー・アボット首相、ニュージーランドのジョン・キー首相も参加しました。トルコ外交は、こうしてイギリス王室や英連邦の首脳たちをトルコでの儀式に参加させることで、前日に行われたアルメニア人のジェノサイドの問題をめぐる記念式典を相殺しかねない成果を挙げたといえるのであります。

 このように、歴史というものは、外交における一つの大きな武器となっています。片方だけが、そうしたことの加害者、あるいは犠牲者であるとか、片方だけが、敗者として勝者の歴史を全てことごとく受け入れるという立場には絶対立たないというのが、トルコの考えでありました。


●トルコ国民が受けてきた圧迫や苦難の歴史


 そもそもトルコ人がアルメニア人の大惨状を認め難かったのは、一部のトルコ国民が受けてきた圧迫や苦難の歴史について、国際世論が無視しているではないかということと関係しています。今のトルコ国民がなぜ共和国の国民として形成されるか、その訳を理解するには、その前のオスマン帝国の歴史を振り返らなければなりません。

 ひとえにトルコ語を話すトルコ人といいましても、そこには、アナトリアに元から住んでいたトルコ人だけではなく、かつてコーカサス、あるいは、バルカン半島に住んでいた人たちもいます。その人たちは、バルカン半島のチェルケス人やチェチェン人、オセット人、カバルダ人といった人々、あるいは、バルカン半島でイスラム教徒であった、例えば、ボスニア・ヘルツェゴビナの住民、あるいは、ブルガリアやセルビア、クロアチア、ルーマニア、ひいてはギリシャに住んでいたイスラム教徒の人たちも含まれます。こうした人たちがイスラム教徒であるがゆえに迫害され追い出されるという事件が、19世紀から頻発しました。

 特にロシアは、19世紀にコーカサス(カフカース)においてこの積極的な征服戦争を仕掛けることによって、多数の無辜(むこ)のムスリム系住民であるチェルケス人やカバルダ人、オセット人、チェチェン人といった人々を殺害したり、あるいは、戦争の惨禍に巻き込んだりして、多数の犠牲者を出しました。そうしたことから逃れるために、多くのカフカースの人々がトルコに逃げてきました。また、そ...
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