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トーチカを占領できたのは日本軍をはめるための罠だった

本当のことがわかる昭和史《1》誰が東アジアに戦乱を呼び込んだのか(14)土鼠退治と高笑い

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
1937年から始まる第二次上海事変の戦闘は実に熾烈を極めた。しかし、当時の歌『上海便り』は非常に勇ましく、日本軍は苦戦の末、土鼠(もぐら)退治のようにトーチカを占領していった。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第一章・第14話。
時間:01:33
収録日:2014/11/17
追加日:2015/08/13
≪全文≫
 それにしても、上海での戦闘は実に熾烈であった。名古屋の第三師団の兵隊さんがかなりたくさん戦死している。にもかかわらず当時の歌は非常に勇ましく、「拝啓 御無沙汰しましたが」という歌詞から始まる『上海だより』には、「隣の村の戦友は 偉い元気な奴でした 昨日も敵のトーチカを 進み乗っ取り占領し 土鼠(もぐら)退治と高笑い」というフレーズがある。

 歌にある通り、日本軍は苦戦の末、土鼠退治のようにトーチカを占領していったのだが、それらはすべて、日本軍を嵌(は)めるためにあらかじめ構築されていた罠だった。

 蔣介石は、日本陸軍がドイツを手本に近代化されたことに範を取り、ワイマール共和国の参謀総長まで務めたゼークト将軍を軍事顧問団代表に招聘した。彼の跡を継いだファルケンハウゼン将軍が、第二次上海事変を含む軍事指導を行なっている。機関銃で武装されたトーチカ陣地を構築したのも、彼ら軍事顧問団の力によるものだった。日本軍に仕掛けて戦争になったら、このトーチカ群によって日本軍を撃滅しようという構想であった。

 このような準備がしてあったからこそ、盧溝橋事件や通州事件で日中の緊張が高まったことを受けて、シナ側は上海で戦争を仕掛けたのである。盧溝橋事件以後、蔣介石は第一次上海事変後に結ばれた協定に違反して十個師団もの軍隊を非武装地帯に配備していた。

 しかも上海で戦端が開かれる前には、上海にいた大山勇夫海軍中尉が殺害される事件まで起きていた。大山中尉は機関銃で射殺されたうえに、青竜刀で頭を真っ二つに割られていたという。

 シナ側は大山中尉がピストルでシナ兵を殺害したので反撃したと主張した。だが、日本軍がシナ兵の遺体を解剖してみると、出てきたのは小銃の弾丸であった。大山中尉は小銃など持っていなかった。つまり、シナ側の偽装だったのだ。

 さらシナの偽装保安隊1万千人が協定を無視して入ってくる。そしてシナ軍が上海の日本人居留民を守っていた海軍陸戦隊を攻撃し、爆撃まで仕掛けてきたことは、先に述べた通りだ。

 あの東京裁判さえ、シナ事変は日本軍の侵略だと裁くことはできなかった。なのに、この戦争がどうして日本の「侵略」なのであろうか。

 そもそも日本軍が中国にいたのが悪かったという人もいる。だが、たとえば盧溝橋事件が起きた地域に日本軍が駐留していたのは、北清事変(明治33年〈1900〉~34年〈1901〉)後の協定に基づくものだ。

 いってみれば、その日本軍を「侵略」として非難するのは、現在、日米安保条約に基づいて駐留している米軍を「侵略者」扱いするのと同じである。もちろん、そのように主張したがる特定の勢力も日本国内にはあるのだが、しかし、そういう主張は公平な歴史の見方とは到底いえないものであろう。
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