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平成に入り明らかとなったノモンハン事件の衝撃的真相

第一章 誰が東アジアに戦乱を呼び込んだのか(6)「ノモンハン事件は日本の大敗北」は誤り

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
1939年に発生した日ソ国境紛争の一つであるノモンハン事件は、日本軍の一方的な負け戦だったといわれることがある。しかし、平成に入り、ソ連側の本当に被害状況が明らかとなる。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第一章・第6話。
時間:06:39
収録日:2014/11/17
追加日:2015/08/10
≪全文≫
 もう一つ、歴史の見方が大きく変わる事例を紹介しよう。ノモンハン事件である。

 半藤氏の『昭和史』では、ノモンハン事件は日本が日露戦争(明治37年〈1904〉~38年〈1905〉)当時のままの武器で最新鋭のソ連の機械化部隊と戦った一方的な負け戦のように書かれているが、そんなことはない。

 半藤氏は平成10年(1998)に『ノモンハンの夏』という作品を書いている。ところが同書を書いている頃に、ノモンハン事件におけるソ連側の被害が明らかになった。それで半藤氏は困って加筆をしている。

 半藤氏は『昭和史』でも、2009年に発行された平凡社ライブラリー版で「こぼればなし ノモンハン事件から学ぶもの」という章を増補し、「確かではないが」と断り書きをして、日本の戦死・戦傷者は約1万7700人近く、ロシアは2万5655人という数字を入れたことを紹介しつつ、こう書いている。

〈ところが豈(あ)に図らんや、日本の第一線の兵隊さんたちは、後ろのほうの参謀本部、あるいは関東軍作戦課の拙劣なる戦争指導にもかかわらず、まことに勇戦力闘したようで、日本側のほうがむしろ死傷者が少なかったと、1998年にロシアが発表したのです〉

 私はノモンハン事件の頃は小学生だったが、当時の小学生は戦争に興味があるから、当時の記憶はわりと鮮明にある。それゆえ戦後になって、ノモンハン事件で日本が負けたと聞いたとき、非常に信じ難い思いがしたものである。

 なぜかというと、当時の従軍画家が戦場で描いたノモンハン事件の画集が、実家にもあり、その印象が強く頭に残っていたからである。

 その絵を見ると、見渡す限りの草原の中でソ連の戦車が燃えている。ソ連の戦車が片っ端からやられていることがよくわかったものだ。それから私は、日本の飛行機がソ連の飛行機を毎日バタバタ落とすニュースをラジオや新聞で知り、小躍りしていた。

 当時の少年たちの英雄は、撃墜数58機を数え、陸軍のトップエースと謳われた篠原弘道准尉である。一機落とすごとに機体の胴体に赤い星マークを描くのだが、篠原准尉の飛行機は赤い星だらけになっているという話もニュースで知っていた。

 あの頃は、大東亜戦争の頃のような情報操作は、あまりなかった。日本の上層部が嘘ばかりつくようになったのはミッドウェー海戦(昭和17〈1942〉)以降の話である。大本営発表も含めて、それまでは報道はほぼ正確だったので、ノモンハンで日本が一方的に敗れたという話はおかしいのではないかと私は思っていた。

 ノモンハン事件が起きた昭和年(1939)の年末に、『空の勇士』(大槻一郎作詞、蔵野今春作曲)という軍歌が発表された。読売新聞社が陸軍省の後援で公募し、西条八十と北原白秋の選定で世に出された歌だ。

 当時、私は9歳頃であったが、さまざまなところに遊びに行く往復のときなどに、よく歌ったものである。いまでも歌詞を五番まできっちり暗記しており、歌うことができる。

 これは当時の子供たちが歌詞を覚える競争をしていたからであろう。記憶が川遊びと結びつくのは、考えてみるとノモンハン事件の頃は夏だったのだ。

 このような歌を歌っていたのだから、日本が負けたなどと思うはずがない。それにしても、実に雰囲気のある歌詞である。5番の「無敵の翼とこしえに、守るアジアに栄えあれ」という歌詞には、まさに当時の気分が横溢している。

 実際に、ソ連崩壊後に明らかになった情報によると、この歌詞はまったく誇張でも何でもなかった。

 その後に明らかにされた記録では、日本軍は戦車の損失が29台、飛行機の損失が179機で、ソ連は飛行機1673機、戦車・装甲車両を800台以上失っている。となると、「ノモンハン事件は日本の大敗北だった」という考え方を、根本的に改める必要があるのではないか。

 もっとも、ソ連側はずっと自国の被害を隠していたから、当時の日本の軍人も真相を知ることはできなかった。そこを責めるわけにはいかないが、歴史を書く人は、そういうところまで考えなければ、その後のソ連の動きがわからなくなる。

 ソ連軍の指揮官を務めたのは、のちにレニングラード包囲突破作戦(昭和16年〈1941〉)やスターリングラード攻防戦(昭和17年〈1942〉)などを戦い抜いて英雄となった、ジューコフ将軍である。

 戦後になって世界の新聞記者たちが、ジューコフ将軍に「いままで一番大変だった戦闘はどこか」と聞いた。するとジューコフ将軍は、ドイツ軍の戦車隊でもレニングラードの攻防戦でもなく、「ノモンハン」だと答えたという。

 最近では、ノモンハン事件後の講和は、ソ連がドイツに仲介を依頼して進めたことがわかってきている。当時、日本側はソ連側の損害がわからず、「悲劇の小松原兵団」と呼ば...
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