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日露戦争までの将校の質が百点なら、シナ事変では50点

第二章 軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(18)宇垣軍縮を理解できなかった将軍たち

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
宇垣一成
近代日本人の肖像
1925年に行われたいわゆる宇垣軍縮以降、日本陸軍の上層部は宇垣一成大将に恨みを抱くこととなり、当時の青年将校たちの間に、陸軍を握っている将軍たちを馬鹿にするような雰囲気が生まれた。そして、将校の育成を怠った日本陸軍では、将校の質が劣化していった。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第二章・第18話。
時間:06:39
収録日:2014/12/15
追加日:2015/08/20
≪全文≫
 こともあろうに、宇垣軍縮以後、日本陸軍の上層部は宇垣一成大将に恨みを抱くこととなり、再び師団を増強する方向で軍拡することを考えるようになった。ところが若い中堅将校たちは、兵力がいくら増えたところで、装備の近代化を図らなければ総力戦はとても戦えないと考えた。その頃から当時の青年将校たちの間に、陸軍を握っている将軍たちを馬鹿にするような雰囲気が生まれたと思う。

 第一次世界大戦の教訓の一つは、科学兵器をいかに充実させ、国家総力戦を戦うかということだった。そのためには、兵器の開発・生産体制はもちろん社会体制までを革新し、高度国防国家を整備しなければならない、と主張する永田鉄山、小畑敏四郎、東條英機ら青年将校たちが出てきて結束し、一大勢力をつくることになる。

 また、これはもっとあとの時代に顕著になってきたことだが、日露戦争までの将校の質を100点とすれば、満洲事変になるとそれが80点になり、シナ事変になると50点と、著しく低下したという説がある。主に将校不足によるもので、その理由の一つが師団を減らしたために、将校の数が減ったことであった。その後、満洲事変からシナ事変へと至る時局の流れの中で、将校の増員が図られる。陸軍士官学校の生徒数は明治・大正時代は1学年約500人で、軍縮時代は2、300人だったが、昭和12年(1937)には1700人を超えた。さらに大東亜戦争終盤には4、5千人まで増やした。だが、急に生徒数を増やしたところで、将校の質がおいそれと高まるものでもない。

 こと将校の育成に関して、日本陸軍は勉強不足だったとの批判は免れないだろう。プロイセンの参謀長などの要職を歴任し、軍政改革を進めたシャルンホルストは、母国がナポレオン率いるフランス軍に敗れた敗因を分析したうえで、参謀将校を養成する士官学校をつくり、貴族に限らず平民からも有能な人物を将校に登用した。まずは将校団の数を揃えて層を厚くしておけば、あとから兵隊の数を揃えても部隊の指揮がうまくいく。のちにナポレオンに勝利したブリュッヘルが率いた部隊では、シャルンホルストが育てた将校たちが活躍している。

 同じことが、第一次大戦で敗れて軍備を厳しく制限されたドイツでも起きている。ドイツ軍参謀総長、陸軍統帥部長官などを務めたフォン・ゼークトは、国土防衛を担う国民軍の将校団を形成し、教育を担うエリート軍の創設に力を尽くした。

 日本陸軍はこうしたことをやってこなかったので将校不足に見舞われ、大東亜戦争間際になって慌てて陸軍士官学校の生徒数を増やしたわけだが、これでは将校の質が落ちるだろうことは目に見えている。日本陸軍はかつてドイツ参謀本部に学んでいながら、将校の育成の重要性を看過してしまったのである。
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