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約7百人の日本人が惨殺された尼港事件を知っていますか?

第二章 軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(8)シベリア出兵と尼港事件の惨劇

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
尼港事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部たち
wikimedia Commons
1918年、チェコ軍団救出を名目にした日本とアメリカのシベリア共同出兵は、各国が撤兵したあとも日本は残留し、支配への執着と後世の歴史家から批判を受けた。しかし、日本にはすぐに引き揚げたくても引き揚げられなかった事情があった。1920年の尼港事件だ。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第二章・第8話。
時間:07:03
収録日:2014/12/15
追加日:2015/08/17
≪全文≫
 大正時代にはまた、世界史に大きな影響を与えたロシア革命(大正6年〈1917〉)が起きている。このことが日本にもたらす影響は非常に大きく、ロシアが倒れたらドイツ軍がシベリアまで押し寄せてくることを懸念する声もあった。ロシアは当時、連合国の一員としてドイツと戦っていたが、壊滅的な損害を被ったタンネンベルクの戦い(大正3年〈1914〉)を皮切りに、敗戦が続いて社会が動揺し、それが引き金になってロシア革命が起きたのだった。

 成立したロシアのボルシェビキ政府は大正7年(1918)3月3日にドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマントルコなどとブレスト・リトウスク条約を結び、単独講和を行ない、ドイツ・オーストリア軍はウクライナの首府キエフを占領した。ロシアがドイツと戦っている最中に講和を結んでしまったこと、ボルシェビキ政府が革命を輸出する方針を明確に打ち出していたこと、さらに革命外交と称してそれまでのロシア帝政時代の債務不履行を宣言したことから、逆にイギリスやフランスなど連合国は干渉戦争を行ない、ウクライナまで入ってキエフなどを占領したのだ。

 その流れもあって、日本はシベリアに出兵することになるのだが、その経緯を説明するためには、話を第一次世界大戦中に戻さなくてはならない。

 第一次世界大戦では、当時、ハプスブルク家の支配下にあったチェコ人たちが同盟国側に加えられて東部戦線に参加していたが、それまでのハプスブルク家支配に反感を持ち、独立を求めていたチェコ人たちの中にはロシアに投降し、逆にドイツに対して戦いを挑む者が多かった。そのためロシアもチェコ人の捕虜たちを集めて軍団を編制し、積極的に活用したが、その数はロシア革命の頃には約4万5千にも達していたといわれる。

 ブレスト・リトウスク条約でロシアが戦線から離脱したために、彼らチェコ軍団は引き続きドイツと戦い、チェコの独立を目指すためにシベリアを回って西部戦線に参加することになった。だが、シベリア移動中にボルシェビキ政権への不満を募らせたチェコ軍団は武装蜂起し、ボルシェヴィキ政権は同軍団を反革命分子として弾圧した。

 連合国内ではイギリス、フランス、イタリアが、日本やアメリカにシベリアへの出兵を再三求めていた。ロシアがドイツと単独講和を結んでしまったため、西部戦線が危機に陥る恐れが高まったためである。日本のアジア進出を嫌うアメリカ政府は、シベリア出兵に消極的な態度を示していたが、このチェコ軍団弾圧事件をきっかけに、大正7年(1918)7月、チェコ軍団救出を名目にした共同出兵を日本に提案。それが受け入れられ、同8月2日および3日に、それぞれ日本政府とアメリカ政府が、シベリアに対する共同派兵を発表した。

 その結果、日本とアメリカだけでなく、イギリス、フランス、イタリア、カナダに加え、おかしなことにシナ軍までがウラジオストクに上陸した。大井成元(しげもと)中将(のち大将)麾下の第十二師団が先導役を務めて非常にうまく戦い、ボルシェビキ軍を一挙にシベリアの奥地に追いやった。

 ところがアメリカは、シベリア出兵に日本を誘っておきながら、シベリア出兵の実質的な主導権を握るようになった日本の一挙一動が気に入らない。アメリカ政府は日本がシベリア出兵に関する合意を無視したとして、抗議ノートを突きつけた。これに対し原敬内閣は対米譲歩の方針を打ち出し、兵力削減などを決定している。

 その後、西シベリアのオムスクに樹立されたオムスク政権(指導者は第一次...
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